境界線
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 少し離れた場所にありながら、ゾロは目が眩むように感じて目を細めた。遠くから届く光にさえサンジの金糸はキラキ
ラと眩い。ゆっくりと近づくその足音の数を数えてどうにか胸で逸る鼓動を諌めた。
「今年も太鼓、叩いてるんだな」
 あと数歩、というところでサンジはすとんと動きを止めた。
 くぐもった声は確かにサンジのもであったが、しかし確かにそうであるのかと言われればゾロは戸惑う。
 金髪の前髪に半ば隠れた顔は、白い狐の御面で覆われていた。
「それ・・・」
「ん?ああ・・・ウソップに借りた」
 顎の辺りを押して、面をずらすと、漸く口元だけが覗いて見えた。それにゾロはほっとするのを抑えられなかった。
「お前も太鼓、叩いて来いよってさ」
 数年前、一度だけサンジもゾロと一緒に太鼓を叩いた事があった。その時も結局なり手が居らず、本来であれば地
元の者しか上がれない櫓に初めて上がったのがサンジだった。その時の楽しいばかりの記憶に、ゾロはぎゅうっと眉を
顰めた。
 暫く言葉もなく、向き合うだけで時間が過ぎた。
 何を言って言いの分からなかった。数年ぶりに会う友人のように振舞えない事は分かっていた。気軽な言葉の一つも
出ない。元々気の利いた事など言えないゾロには、ただじっと表情さえ分からない白い面を見ているしかなかった。
「・・・・・・悪かった」
 ぴくりとゾロの眉が上がった。
「突然、行方くらまして。その・・・本当は、連絡しようと・・・思ったんだけど」
 着慣れぬものを無理やり着ているせいか、サンジの浴衣の胸元は大きく開いて緩んでいる。その中に片腕を突っ込
んで、もう片方は体の横でぎゅうっと握られていた。御面に隠され表情の分からないサンジの、それが唯一の表情のよ
うに思えて、ゾロはその手をじっと見ていた。
「・・・お前、死んだって聞いたけど」
「ああ・・・それは」
 海難事故があったのは確かだった。しかし遭難はしたものの、どうにか九死に一生を得たのだ、とサンジは言った。
「俺の・・・身内が新しく店出すっていうんで、元々は一ヶ月くらいの手伝いのつもりで行ったんだけどさ・・・・・・。帰る頃に
なって、あんな目にあって。それで結局足止めされて、帰国も中々出来なくてさ」
 あれから、何年も経っちまった。
 その言葉に、ゾロがびくりと反応した。それにサンジがさっと顔色を変えたのが、その口元だけでゾロには分かった。
「ゾロ」
 あれから。その言葉に、サンジがどれほどの意味を込めて言ったのかは分からない。いや、元々意味などないのかも
しれない。過剰な反応を返してしまい、間が持たず彷徨わせていた視線を、名前を呼ばれて咄嗟に戻した。無表情の
ままの狐がじっとこちらを見据えている。 ゾロはどう反応していいものか分からず、木に背中を押し付けて身を硬くし
た。
 その時不意に木立の隙間を縫うようにして襲った突風に、ゾロは咄嗟に目を閉じた。

 その瞬く間に。

「好きだ」
 ずらした御面の隙間から零れた唇は、確かにゾロのそれを塞ぎ、しかし旋風の要領であっという間に離れていった。
 何が起こったのか分からぬまま、呆然とゾロは隠されたままのその目を想った。
「ずっと、お前の事が好きだった。あの頃から、ずっと」
 囁くようなサンジの声は、ともすれば風に乗った喧騒にかき消される。だが何年経っても間違うはずのないその声を、
ゾロは確かに聞いていた。
 木の幹に体を預けたままのゾロと、今や寄り添うように正面に立ったサンジとの距離は至極短い。手を伸ばさずとも、
ただ肩を揺らせば、触れることの叶う距離だ。
 しかしそれがあまりにも遠く感じ、ゾロは闇雲に手を伸ばす事も出来ずにいる。
 そっと動く口元を、見つめる事が精一杯だった。
「だから、お前の傍には居られなかった。・・・裏切れなかった」
 サンジが今、どんな目をしてその言葉を言ったのか、見たいとゾロは強く願った。
 サンジの目が、見たい。
「あの夜の事、覚えてるか?」
 ふいっと逃げたサンジの横顔が長く伸ばされた前髪に隠れる。木立を抜けた風がパサパサと毛先を弄んでいる。そ
れがカンテラの光を受けて、光沢を灯した。
「最後に会った夜。お前の家に泊まった時の事」
 ゾロの就職を祝って酒を飲んだ夜の事だ。もちろんよく覚えている。
 サンジに最後に会った夜。
 ゾロはコクリと唾を飲み込んだ。
「お前が珍しく酔いつぶれた夜だ。お前はすごく浮かれてて、俺も・・・ちょっと浮かれてた。お前が本当に嬉しそうで、俺
も嬉しくて」
 時々言葉を切りながら、ちょっと笑った風のサンジの口調はそれだけに真摯だ。
 ゾロはその横顔を見ながら、喉の辺りがきつく詰まるのを感じた。
 忘れるわけがない、とゾロは思った。
 忘れるわけがない。
 忘れられるわけが。
「俺は調子に乗ってた。お前はあっという間に酔いつぶれて、俺は・・・俺は。半分寝込んだお前に・・・・・・キスをした」
 お前が朦朧としているのをいい事に。俺は勝手に。
 サンジの口元に、初めて自嘲の笑いが浮かんだ。まるで誰かを小馬鹿にする風に。けれどもそれは確かに自身に向
けられていた。
「それまでずっと、そうかも知れないとは思ってた。お前の傍に居る事が、いつの間にか特別になってた事、気づいて
た。でも、俺は」

 少し自分の事を、甘くみてた。

 サンジは俯いて、指先ですっかり忘れられていた煙草を捨てて草履の先で擦り付けた。
「最初は多分、ちょっとした悪戯のつもりだった。いつもと様子が違うお前が・・・可愛くて、触りたくて。俺も酔ってて、気
が大きくなってた。でも、そんな事やっちまって、止められるわけなかった。お前に触った瞬間、頭のどっかがぶっ飛ん
じまった」
 ゾロにとっても最後のよすがのように残っていた口元を、サンジは手で覆った。
 指先が、少し震えていた。
「お前と目が合った瞬間、俺はさ、怖くなって逃げたよ。靴履くのも忘れてた。裸足でお前の家から逃げて帰って」
 そのまま、北の海に渡っちまった。
 ハハッと漏らしたサンジの鋭い呼気が、笑いである事に気づくのに暫くかかった。
 確かに笑いに喉を震わせているのに、ゾロには何かに怯えているようにしか見えなかったのだ。
「北の海には面白い食材がいっぱいあって、滅法寒いが人は皆親切で楽しい事ばっかりだった。色んな新しい料理も
教えてもらって。なあ、知ってるか?北の海の女の子は、本当に肌が白くて滑らかで、やさしくて、綺麗な子がいっぱい
いるんだ」
「・・・そうか」
「そうなんだ」

 それなのに。
 なあ、俺は。

 呟きは本当に些細で小さかった。木立の軋む音にさえ負けた。それなのにそれがあまりにも大切で、ゾロは逃す事が
出来なかった。

「俺は、それでもお前じゃねーと、イヤなんだ」

 ゾロ。
 
 呼び声はもう音ではなかった。祈りのように唇を振るわせただけだ。
 サンジの指先の震えはもうどうやっても隠せず、誤魔化ように何度も噛んだ唇はすっかり赤くなっていた。
 小刻みに震えるのは指先だけではなく、着慣れぬ浴衣に包んだ肩まで細かに揺れている。
 そこまでしても御面を外さないのは、サンジの精一杯の強がりだ。

「もしもう一度叶うなら、一目だけでもお前に会いたかった」
 
 ゾロは黙って俯いた。

 馬鹿なことを。なんて馬鹿なことを。
 
 ゾロはきつく目を閉じた。目蓋の裏が白く滲む。何かを打ち消すつもりがそうすれば余計に強く浮き上がった。

 ずっと思っていた。サンジが自分の前から消えた理由。
 行き先も告げず、誰にも連絡を取らず。
 唯一残った噂は、サンジが遠い異国の海で死んだというものだけだった。
 それを聞いて、何度後悔したか知れない。

 サンジが自分の前から消えた理由。


 俺がサンジを好きになったから。
 
 サンジはそれに気づいて、きっと。


 ずっと、そう思って。ゾロは。


「ゾロ」
 目の前に微かに感じる暖かな体温の気配を、ゾロはイヤというほど全身で懸命に感じ取る。そうやって浅ましい自分
を、何度も後悔したか知れないのに。それでも。
 ゾロはずるずると木の根に座り込んだ。そのまま膝を抱えて顔を埋める。
 順序だてて何かを説明するほど、ゾロは器用ではなく、頭の中にいっぺんに流れ込んだ情報や感情や事実や言葉の
渦が様々な波紋を広げてゾロを混乱させた。
「ゾロ」
 それなのにサンジの声は僅かに震えて尚の事ゾロを混乱させる。今更の様に言い尽くされた言葉を繰り返しそうなっ
てゾロはきつく唇を噛んだ。

 あの夜。

 サンジが何も言わずにゾロの部屋を飛び出した夜だ。
 サンジは大分酔っていた。
 そしてゾロも同様に。
 しかしサンジよりは酒に強いゾロは、イヤになるほど素面だった。
 素面だったのだ。
 それなのに触れて来るサンジの手を拒まず、最後には薄っすらと開いた目がかち合っても、それを逸らしもしなかっ
た。
 その途端、サンジは覆いかぶさっていた体を跳ね上げた。
 口元を手の甲で押さえ、情けない表情で、真っ赤な顔でこちらを見ていた。
 サンジはそのまま体を引き、何の言葉もないまま部屋を出た。靴は土間に置かれたままで、ゾロの突っかけだけが片
方なくなっていた。

 だからゾロは、てっきりサンジが頭を冷やしてすぐに戻ってくると思っていたのだ。

 そうしたら、なんて言おう。アレは冗談だったんだろう?俺もちょっと酔ってたから?
 それとも言ってしまおうか。いっその事、全部お前に。
 そんな事を考えながら、ゾロはサンジがまたその戸口に姿を現すのをじっと待っていた。

 夜が明けても、ずっと。


「お前に気持ち悪いと言われるのが怖くって、黙って俺は逃げちまった。それでもあの時、死ぬかもしれねェと思った
時、お前の顔しか思い浮かばなかった。言えなかった事、後悔した。・・・俺はこのままここから消える。お前に顔は二度
と見せねェ。でも、それでもお前の事が・・・好きなんだ」
 ごめんな、とサンジは言った。勝手な事ばっかりで、ごめん、と。
 蹲ってしまったゾロと同じように蹲って。いつの間にか狐の御面は落ちて土に汚れいてる。
 ゾロはそっと顔を上げ、足元に転がったその面を取上げた。
「サンジ」
 膝に埋めた頭が少し動く。しかし上げようとはしなかった。ゾロは我慢強くもう一度名を呼んだ。
「サンジ」
 恐々と、叱られた子供の様にサンジは漸く顔を上げた。
 何年かぶりに見たサンジは少し大人びて、それなのにまるで子供の様に泣いていた。
 その頬にそっと手を伸ばし、今度こそ確かにその距離を縮める。胸の辺りにあかりが灯ったようにじんとした。永遠を
感じた絶望の距離は、もう少しもゾロを恐れさせなかった。
「暖けェな・・・。ちゃんと、生きてる・・・」
 日に焼けない白い頬。薄い唇、深い不思議な色をした目。鮮やかな光の金糸。何もかもがあの頃のままだった。ただ
あの頃には見せなかった頼りない表情や、隠さない涙の粒がどうしようもなく綺麗だった。
「ちゃんと・・・生きてんだな・・・」
「ゾロ・・・」
 頬を包み、目元を辿り、髪を梳いた。乱れて頬に貼りついた前髪は、しっとり涙に濡れている。それをそっと払いなが
らゾロは呟き、サンジはただじっとゾロの温もりを慈しむように目を閉じている。
 ゾロは何度もサンジの形をなぞる様に手を滑らせた。
「心配、してくれてた・・・?」
 そんな風な噂が立っていたことを、サンジは先ほどウソップから聞いたのだと言った。
 ひたりと視線を逸らさぬゾロに、サンジはやっとぎこちなく微笑みかけた。
「嬉しい・・・」
 そう言って、サンジは彷徨っていたゾロの手を取り、その掌にくちづけた。そっと、本当に触れるだけの。暖かな吐息
は震えてゾロの手を湿らせた。
「本当はずっと、こうやって触れたかった。・・・ゾロ」
 濡れた目が、ひっしと懇願するように見つめていた。その痛々しさにゾロは途端に混乱する。
 しかしその奥ではもうずっと以前から決まっていた言葉一つがポツンと浮かんでいた。
「このまま攫っちまいたいよ・・・」
 どこか、遠くへ。
 サンジはまたぽとりと涙を落とした。ゾロの手の甲を滑って雫が地面に落ちていく。それをゾロは純粋に惜しんだ。
 ゆっくりと瞬き、息を吐く。
「・・・どうせ俺は一人じゃまともに行き着けねェし」
 自嘲気味に口元を歪める。気恥ずかしいのに、どこか嬉しかった。
「・・・ゾロ」
 じっとその真意を探るように見つめるサンジの目は必死だ。ゾロはそれを逸らさず、力を込めて見つめ返した。
「連れて行けばいい。どこへでも」
「・・・・・・っ」
 途端に嵐のように体を巻き込まれた。
 目の前が白く覆われる。それがサンジの顔であると気づいたのは息苦しくなるまで唇を塞がれた後だった。
「ゾロ・・・ゾロ・・・ゾロ・・・」
 忙しなく動くサンジの手が、何度も確かめるようにゾロの背中や肩を撫でた。輪郭をなぞってはまた行き来を繰り返す
動きに余裕はなく、ゾロは流石に驚いてサンジの体に巻き込まれていた腕を突っ張った。
「おい、お前急に・・・っ」
「だ、だってっ」
 ちゅうっとゾロの米神に吸い付いて離れない。手はいつの間にか前の合わせから入り込み、ゾロのわき腹を直に撫で
ていた。半纏は肩から落ちてはだけてしまっている。
「ずっと、ずっと夢にまで見て。や、やっとゾロに会えたのに」
 止められるわけない。その上お前が。いいなんて言うから。だから。
 すっかり呼吸の上がってしまっているサンジの言葉は切れ切れだ。その間にも手は休まずゾロの体に触れいている。
すっかり木の根元に押し倒された恰好になっている事に気づいて、ゾロは慌ててサンジの顔を押した。
「ば、馬鹿!だからって幾らなんでもこんなところでっ」
 確かに木立の中は薄暗く、こんな中にまで人が入ってくる事は滅多にない。しかしいつたまたま酔っ払いが入り込ん
でくるか知れないし、ルフィやエースが探しに来るかもしれない。そう思えばじっとしていられるわけがなかった。
「サンジ!」
「いやだ!」
 戒めに即座に返された反発に、ゾロは一瞬あっけに取られた。
 しかしサンジの目は至極真剣につり上がっている。ゾロは大きく息を吐き、もう一度ぐいっとサンジの胸を肘で押し返
した。
「ゾロッ」
「俺ん家!」
「・・・え?」
 どうにかサンジの下から這い出し、ゾロは乱れた服をぱっと直した。転がった御面に手を伸ばす。すっかりその顔は
汚れてしまっていた。
「それくらい、我慢できるだろ」
 へたりと座り込んだままだったサンジが、ものすごい勢いで立ち上がった。

















(03/08/13)

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