夕日に凪ぐ海風のように、突然胸がシンとすることがある。 そんな時は決まって傍にゾロが居る時だった。 その夜もそんな風な夜だった。 夕食の後片付けを、当番のチョッパーとしている時だった。 真水を無駄にしないよう手早く泡を切った皿を、隣で布巾を持って待ち構えているチョッパーに要領よく渡していく。そ れをチョッパーは大きな手で丁寧に掴み、キュキュと音をたてて磨き上げた。 チョッパーは医者らしい器用な手つきで次々と皿の山を積み上げる。この船の中でサンジの調子に合わせて皿が拭 けるのはチョッパーくらいのものだった。 「もう終わりか?」 まるで磨き足りないというようなチョッパーに、サンジは笑ってご褒美のクッキーを渡してやる。そうするとチョッパーは たちまちいつもの小さく愛くるしい姿になって嬉しいそうに目元を染めた。 「俺にか?俺が貰っていいのか?」 「ああ。ルフィに見つかるんじゃねーぞ」 あっという間に喰われちまうからな。シイッと唇に指を立てて笑ってやると、チョッパーは慌てて辺りを見回し、テーブ ルにいるのが座ったままうたた寝を始めたゾロだけだと確認してからとても大切そうに帽子の中にクッキーをきちんと 仕舞い込んだ。 「ありがとう、サンジ」 「どういたしまして」 チョッパーは下心なしにサンジの手伝いをしてくれるから、どうしたって嬉しくなってこんな風に小さなお礼を用意してし まうのだ。そしてこうして渡す度、チョッパーはいつも本当に嬉しそうにはにかんだ。 「さあ、風呂に入って寝ちまいな」 「うん」 そっと毛並みの背中を押して、扉の方へ向かわせる。だいぶ前にウソップが使い終わった報告がてら水を飲みに来 ていたので、風呂を使うのはここに残った三人だけだ。サンジはキッチンの明かりを消すまでにもう少しやる事があった し、ゾロはテーブルに突っ伏して本格的な眠りに入り始めている。何事にも遠慮がちのチョッパーは、そんな二人を見 比べて幾らか迷う素振りを見せたものの、そのまま素直にキッチンを出て行った。 「さてと」 明日の朝の仕度も大概は済んでいる。多分誰が見ても片付けているようにしか見えなかったろうが、サンジは同時進 行できっちり朝食の準備も済ませていたのだ。肘の辺りまで捲り上げていたシャツの袖を戻し、テーブルにきちんと畳 んで置いた上着から煙草を取り出し火を点けた。 「あー…」 ごしごしと手の平で顔を擦る。そうすれば誤魔化せるような気がするが、本当はどうやってもどうにもならない。 テーブルを挟み込んでゾロの正面に立つ。見下ろしたゾロの頭はピクリとも動かず、肩だけが呼吸に合わせて穏や かに上下していた。 きっと、顔は真っ赤に違いない。 どうにも気になって、もう一度頬の辺りを数度擦った。そっと手の甲で触れるとやにわに熱く火照っている。もし今、ゾ ロの背後の扉から誰か入って来ようものなら、言い訳も効きそうにない赤面ぶりだ。 「ゾロ?」 小さな声で名前を呼ぶ。そんなもので起きるゾロではないが、一応確かめたかったのだ。一度大きく肩で呼吸を整 え、思い切ってゾロの正面に腰掛けた。 カタン、とイスの足が鳴った。それだけでゾロが起き出すのではないかと、ありえない妄想に恐れをなす。それでもサ ンジの手は止まらなかった。 そっと、髪の先に触れた。思ったよりもやわらかい感触に励まされ、そのまま滑らせるように手の中に収める。案外小 さなゾロの頭はそのまま片手で掴めそうな大きさだ。触れるか触れないかの微妙な素振りで髪を撫でる。 直接頭に触れないように、この手の重さを感じさせないように。 そう思いながらサンジは、こんな風に自分に触れていたはずのゾロは、あの時いったいどんな顔をしていたのだろう かと思った。 まるで眠りを誘う揺り籠の要領で、やさしく触れたゾロの指。気遣うようなやわらかな仕種。暖かい手の感触を思い出 す。そうすれば途端に胸がジンと痛んで急に息が苦しくなった。 そんな時思い知るのだ。どうしようもなくゾロが好きだという事を。 重ねた腕の上に額を乗せて眠っているせいで、前髪がくしゃくしゃと潰れている。腕と額に挟まれた髪をちょい、と引 き出してから、そっと生え際の辺りを撫でた。それでもゾロは目覚めないだろうという保険がサンジにはある。普段は腹 をまともに踏まれても起きない男だ。本当なら抱きついても平気だという思いもあったが、それだと今度は他の誰かに 目撃される可能性と危険性がある。ゾロ云々の前に周知の事実にするには自信が足りなかった。 そのまま額を辿り、眠りのせいで赤く上気した頬に指先を沿わせる。水仕事のせいで冷えた指にそれは痺れるような 熱さだった。 泡の様に浮かび上がる感情が一通り一巡すると、胸は徐々に静謐を湛え、湖面の様な無風の時間が訪れる。 そんな風に誰かの存在を感じた事は今までなかった。元々サービス精神旺盛なサンジにとって、他人との間に作る時 間は常に楽しいものでありたいと思う。そうなれば浮き立つ話題や冗談や、いっそふざけて口汚い罵り合いに発展し た。 分からない。でもゾロは違うのだ。 何か特別話をしたいわけでもない。思えば共通の話題などないのだ。昔話を語り合う仲でもない。元々ゾロはそういっ た話題に積極的ではなかった。 ただ何も言わず、ゾロの傍に居たいと思う。ただ傍で、ゾロの存在自体を感じていたいと。 体温にすっかり同化した金のピアスをそっと摘まみ上げる。そういえば外したところを見た事がないと思い、刀以外に もそうやって特別な扱いを受けるピアスの向こうに見える根も葉もない人影に嫉妬する。 何も言わなくていい。ただゾロの傍に居る事のできる存在に。 くすみを知らない表面が、きらりとランプを反射する。いきなり鋭く目を射られ、サンジは咄嗟に目を瞑った。 ゾロは普段、何も言わなければ静かな男だ。気配さえも酷く薄い。 それでもこうして目を閉じても、感じられるものが確かにある。 多分それを、サンジはずっと感じていたいのだと思う。 そしてできる事ならば、もっと確かに。触れ合う事で確かめたい。その意味を。 「くすぐってェよ」 ぼんやりとしていたサンジは、本当に飛び上がった。尻が確実に数センチベンチから浮いた。 ゾロはいつの間にかぱっちりと目を開き、そのままの姿勢で上目遣いにこちらを見ていた。 「い、い、いつからおま、おまえ」 「おめェの触り方は、くすぐってェ」 そう言って大げさに引かれて、今ではサンジの背中に隠れてしまったその手の行方をチラリと追い、それからふわ あ、と大きな欠伸を漏らした。 「チョッパーは?」 「ふ、風呂。風呂入って寝た」 「ふーん…」 聞いた割りに興味のない返事に、何がしたいんだよ!と突っ込みそうになり、慌ててサンジは口を噤んだ。そういう意 味ではこちらの方が問い詰められかねない。そうなればサンジには答えようなどないのだ。 ゾロは俯いてダラダラと冷や汗を流すサンジを見ていたが、ふう、と息をつくと両手で頬杖を突いた。 「ん」 「…は?」 目を瞑って黙って顔を突き出すゾロに、サンジは危うく己の顔を近づけそうになって最大限の自制で顎を引いた。 「な、なに」 「ほらよ」 沈黙が落ちる。ゾロは目を瞑ったまま、サンジはそんなゾロを食い入るように見つめたまま。 ゾロの意図が読み取れず、サンジは意味もなくごくりと唾を飲み込んだ。 硬直したまま動けないサンジに、ゾロは焦れたように目を開くと、面倒そうにがりがりと頭をかいた。 そしてそのまま反対側の手を伸ばし、不意にサンジの耳を引っ張った。 「いてっ!いたたた」 ぐいぐいと耳を引かれて痛みに呻き、引かれるままに頭を寄せる。テーブルの半ばまで引っ張ってからゾロはぱっと 手を離した。 そしておもむろにサンジの鼻をぎゅう、と掴んですぐ離した。 「な、なにを」 じんじんする耳よりも、最後につままれた鼻ばかりが気になって、サンジは両手で鼻を隠した。きっと赤くなっている。 チョッパーに見られたらきっと複雑な表情をされるに違いない。 「触りたいんだろ?」 そしてまた顔を突き出すゾロに、サンジは唖然としたがしかしすぐに持ち直した。 不意を狙って行った行為を咎められるどころか、こうして公然と許されたのだ。戸惑う理由がどこにある。 理性はそう言うのに、サンジの手は動かない。突然の出来事に上手くついていけないのだ。 真っ直ぐにこちらを見るゾロの目は、真摯なほど真っ直ぐなのに、いつものような辛辣さは微塵もない。同じだけの強 さの中に感じるのはあの暖かい午後の日差しの様な温もりばかりだ。 サンジはそっと手を伸べる。それに合わせてゾロも目を閉じた。 指先で触れる、秀でた額。柳眉、鼻筋や頬、閉じられた目蓋、そぎ落とした輪郭、重たげにピアスを飾った耳。 確かめるような仕種はおそらく想像以上にあからさまだった。そのまま手の平全体で頬を包み、サンジはそっと額にく ちづけた。 「好きだよ」 ゆっくりと光を灯すゾロの目が開く。じっと視線をすえたまま、サンジは出来る限りの心を込めて微笑んだ。 一度は伝えたその気持ちを、改めて強くサンジは自覚した。 「好きだ」 もう一度額にくちづける。ゾロは何も言わず、だが拒絶もしなかった。 投げ出されたゾロの手を取り、ぎゅうっと握る。眠りに暖かく湿った肌が冷えたサンジの手を温める。そのぬくもりだけ でも、今はいいとサンジは思う。 触れる事、傍に居る事をゾロが望んでくれるなら。 すると不意にゾロがサンジの指にするりと指を絡め、ぎゅうっと握り返してきた。驚いて顔を上げると、困ったようなゾ ロの目とぶつかった。 「今はこれが…精一杯だ」 そう言ったゾロは少し辛そうにも見えた。 ああ、もう本当にそれだけで。 サンジは胸が急に詰まって、息が途絶えた。感情が昂ってどうにかなりそうだ。強引に揺り動かされて酩酊するように 眩暈がする。 「昼寝」 目元をごしごしと擦る。なんだかひどく恥かしくて、ゾロの目を見る事ができなかった。 「たまには一緒にしてもいいか?」 「…ああ」 顔は赤いかもしれない。きっと目も。それでも何とか開いた先に、思いがけなく真剣なゾロの顔を見た。 「サンキュ」 だからそれだけでいい。今は。 お前がどんなにか真剣に俺の言葉を考えてくれていたか分かるから。 でもいつか。 いつかお前が同じように感じてくれればいいと思う。同じように望んでくれればいいと。 今はただ、こうして触れ合うことを許された現実を、サンジはその温もりと共に閉じ込めた。 これからは静まった夕凪の胸の中に、その温もりを感じる事が出来るようにと。 信じながら。 祈りながら。 |