サンジがすごくニヤニヤしているので気持ちが悪いと思っているのはゾロだけではなかったようだ。 現に今、ゾロの横を通ってこちらを見下ろしていたナミの目が、それを如実に語っている。しかしどんな気遣いかそれ を言及せずにいるのは、今の特殊な状況ゆえの事だろう。わかっているだけに溜息は勝手に零れた。 「な、なんだ?具合悪いのか?」 ニヤニヤ笑いをピタリと止めて、サンジが気遣わしげにゾロを見上げてくる。それにどう答えたものかとゾロは何度か 口を開閉させたが、結局何も言えずにもう一度溜息を吐いた。 ゾロからしてみれば寝耳に水というか、瓢箪から独楽というか、とにかく筆舌し難い特異性に、未だに己の立場を認 められずにいるのは大変不本意であった。 元来、ウジウジと物事を考えこんだり、悩んだりを出来ない体質である。ナミ辺りに言わせれば、それは体質でなくた だ単に無神経なだけという事になろうが、生憎ナミは無表情のまま向こうへ行ってしまった。 それではやはり自分で考えなければならないだろう。 ゾロはふう、と吐息を細く漏らした。 そんな風に珍しくゾロが真剣に考えている中、目の前ではゾロが返事を返さないことに、段々と顔色を変え始めるサ ンジがいた。 「チョ、チョ、チョパ、チョパ、チョパ、チョッパー!!」 いきなり目の前で怒鳴られ、ゾロはぎょっとして目を見開いた。 サンジがわたわたと手足をばたつかせてゾロの体の上から避ける。 この晴天の空の下、あろう事か甲板のど真ん中でサンジは先ほどからゾロの体にしがみつき、腹巻に顔を寄せて寝 転んでいたのだ。 「サンジ!?ど、どうした!?」 珍しく穏やかに進む航海の中、突如発した絶叫にチョッパーがラウンジから転がり出てきた。片手には煎じている途 中だったのだろう、擂粉木が握られている。チョッパーの見渡した眼下には、船の縁に寄りかかって驚いているゾロと、 腰を抜かしたようにジタバタしているサンジが居た。 「ゾロか?ゾロがどうかしたのか!?」 だが見たところゾロに変わった様子はない。気分が悪そうというわけでもないし、顔色もいたって正常だ。もしかしたら ここからは見えぬ変化かと、チョッパーは半ば階段を転げるようにして駆け寄った。 「チョッパー!ゾロが返事しないんだ!」 勢いあまってタックルをするサンジにチョッパーは足を取られて後ろに転がった。体が軽くて丸いせいでよく転がる。そ のままサンジがマウントポジションでチョッパーの上を取った。 「なんだ?俺のせいか?なあ!チョッパー!俺のせいなのか?!」 「サ、サ、サ、サ、サンジ、は、は、は、はなは、放し」 「笑ってる場合じゃねえだろ!?」 今にも泣きださんばかりのサンジは、チョッパーの肩を掴んで前後に揺さぶった。ガクガクと頭が激しく揺れる。その せいで脳震盪を起しかけたチョッパーの言葉を、サンジは悲壮を通り越して鬼のような形相でなじった。 それをやや呆然として見ていたゾロだったが、はっとして慌ててサンジの肩を掴んだ。 「止めろって。チョッパーが死ぬぞ」 「ゾロ!大丈夫か!?」 「何が」 「だってお前、返事しねぇから!」 「…ちょっとボーッとしてただけだ」 「なんだ。そうかよ」 ピタ、と動きを止めて突然冷静な口調で返し、サンジはん?という顔で半ば気を失って倒れているチョッパーを見た。 「どうしたんだ、こいつ?」 まるで先ほどの狂乱など忘れた様子で訝しげに眉を顰めるサンジに、ゾロはまた溜息を漏らさずにおれなかった。 こんな行動が最近ではすっかり日常となってしまったにはワケがあった。 始まりは一週間ほど遡る。 最初にゾロの異変に気づいたのは、気遣いの人、ウソップである。 彼は別段、意識してゾロだけを見ていたわけではない。ただゾロがいつもと違う行動を取っている事に気づいたの は、彼の眠るハンモッグがゾロの近くであったからだ。 ゾロの一日は朝、朝食前の碇を上げる作業から始まる。何といっても碇を一人で上げられる人間は、この船の中に 幾人も居ない。自然と役割分担は決まっていて、ゾロは朝の作業が始まるギリギリに起き、終えたら朝食までうたた寝 をし、食後は鍛錬をするなり、もう一度寝なおすなりする事が多い。他のクルーは思い思いの時間に起きるのが常だ が、順番は大体決まっている。朝食を作るサンジ、早起きが身についているウソップとチョッパー、腹が減って目が覚 めるルフィ、女性陣は早く起きているようだが、朝の作業が始まるまでは部屋から出てこない。そして最後にゾロであ る。多少の前後はあるが、大体その順番で目を覚ます。特にゾロの目覚めは必ず最後で、そればかりはきっちりと守 られていた。 だからウソップが二・三日前から自分より早く目を覚ますゾロを、不自然と思ってもおかしくはなかった。 「……ん?」 パタンと天井の扉が閉まる音で目が覚めた。朝は比較的眠りの浅くなるウソップは、サンジが起きだす小さな音で目 覚める事もある。その時もそうだろうと寝返りをうった。だがそこでふと目をやった寝床に、ゾロの姿がない事に気がつ いた。そういえばここのところそんな風景ばかりを見ている様な気がする。反対側の隣では、ルフィが未だに大鼾をか いていた。 「朝の鍛錬でも始めたんかな…」 常に強さを追い求めるゾロの、自己に対する厳しさは少々常軌を逸するところがある。人知れず早朝の鍛錬を日課 に加えたのかもしれない。まだ時間が早い事を確認し、もう一度寝なおそうとウソップは毛布を被った。だが妙に目が 冴え、眠れない。仕方なく体を起した。 「たまにはサンジの手伝いでもするか」 下ごしらえの段階では手伝えなくとも、そろそろ形の出来始めた時分である。何か手伝える事もあるだろうと男部屋を 抜け出した。 「…?」 顔を洗おうと風呂場の扉に手を掛けたまま、ウソップは一瞬躊躇した。扉の小窓のカーテンが引いてあるのだ。これ はイコール使用中を意味する。しかし半端に回した扉の取っ手は抵抗なく素直に回った。鍵がかかっていないのだ。な らば昨晩最後に使った者がカーテンを開けるのを忘れたのかもしれない。ウソップは今度こそ戸惑う事無く扉を引い た。 そこには洗面台に取り縋り、苦しそうに嘔吐してるゾロが居た。 あのゾロが、である。 その後のウソップの対応はいたって迅速だった。タイルに同化してしまったかのように冷えた体に一番大きなタオルを 着せかけ、裸足の足元にタオルをひいて、全速力で男部屋まで駆けた。入口から飛び降り半分寝惚けたチョッパーを 小脇に抱え、もう片方には診療鞄を携える。寝ているルフィからも毛布を剥ぎ取り抱え上げ、風呂場で苦しんでいるゾ ロの元へ駆け戻った。 全治二年の大傷を抱えようと、そのために高熱を出そうと平然と会話をしていたゾロである。 事の重大さを感じて、ウソップは考える間もなく行動を取っていた。 寝惚けていたチョッパーも、嘔吐を繰り返すゾロの姿に仰天して目を覚ました。そのまま即座に診察をする。 なんでもない、大丈夫だと嫌がるゾロを、なだめるのはウソップの役目だった。 問診、触診、聴診器。ここぞとばかりに普段は出来ない健康診断さながら診察をするチョッパーの真剣な様子に、流 石のゾロも抵抗を諦め、眉を顰めて黙り込んだ。おそらく自分でも勝手の違う自らの様子に、思うところがあったのかも 知れない。 とにかく大人しくなったゾロに、チョッパーはこれ以上ないくらい丁寧に診察を行った。 「チョッパー…どうだ?」 しかし長い時間をかけても、チョッパーの診察はなかなか終わらなかった。流石に心配になり、ゾロがチョッパーに声 をかける。横で眺めるウソップも、段々と怖くなってきていた。 そこで初めてウソップは俯き気味で診察をしていたチョッパーの手が、微かに震えている事に気がついた。それにハ ッとしてゾロの顔を見ると、ゾロもそれに気づいたのか、さっと顔色を変えた。 「おい、チョッパー。どうなんだよ。どっかおかしいのか?」 「…おかしいって言うか…俺、こんなの初めてで…。本当ならありえないのに…、でも多分間違いないと思うんだ…。ゾ ロ」 顔を上げたチョッパーの目は、明らかに潤んでいた。ウソップは無意識にひっと顎を引く。チョッパーは小さな肩までを 小刻みに震えさせていた。 まさか、ゾロの体にとんでもない事が? 一層厳しくなったゾロの表情が、チョッパーの言葉を待っている。 その横ではウソップが固唾を飲んで見守っていた。 「おめでとう!ゾロ!オメデタだぞ!」 ほがらかに言祝いだチョッパーに、ゾロは即座に意識を失い。 混乱のあまり女部屋に逃げ込んだウソップは、着替え中のナミにぶっ飛ばされた。 |