rest 1 ポツポツと窓を叩く音に目を上げると、丸窓の表面は濡れて水が走っていた。 いつから降り出したのか、雨は勢いを増し、だんだんと音は大きくなる。サンジは少し億劫な気持ちでそれを見、さて どうしたものかとコツコツと鉛筆の先でテーブルを叩いた。 天候の変化は大抵の場合、大変優秀な航海士の口から事前に警告を受ける。だが今日に限って、朝食の場でそう いった話題は上らなかった。それでサンジも今日は良い日取りなのだろうと思ったのだった。 しかし船は突然のスコールに包まれ、雨脚は強まる一方だ。外の様子を見に行かなければならないか。 サンジは午後になって重くなった腰を上げるべきかどうか本気で迷った。 「なんだ、いるんじゃねぇか」 突然開いた扉から、ひょい、と顔を覗かせたのは、ずぶ濡れになったゾロだった。 「外で寝てたのか?」 つい昔の癖でそう問いかけ、サンジはがたんと椅子を鳴らして立ち上がった。 船に戻ってから、ゾロが昔のように甲板で昼寝する光景を見る事はなくなっていた。 以前は甲板で眠りを貪るゾロを、蹴ったり罵ったり、とにかく邪険にしていたものだが、いざなくなってしまうとなんだか 物足りないような気がしてしまう。本人としては特に眠くない以外の他意はないようだったが。 「いや、さっきまで見張りだった」 上は雨避けがねぇから。親指で上を指すゾロに、タオルを出して投げてやる。ありがとう、とゾロは無造作に顔を拭っ た。 「考え事か?」 テーブルの上を指す。がらんとしたラウンジはいつも以上に広く見え、その中央辺りにサンジの陣取るテーブルはあっ た。朝から昼、夜から寝るまでの間、サンジは良くそこでレシピを書き留めたり、考え事をしている。あまり見ている風で もなかったゾロだが、案外気には留めていたらしい。サンジはまあな、と微笑んだ。 再会してすぐの頃、それこそサンジはゾロを肌身離さず居たものだが、しばらくすればしぶしぶといった風で、それぞ れ別行動をするようになった。とはいっても夜になれば互いの部屋へ入り浸るのは変わらない。流石にそこまで見咎め る無粋者はいなかった。 「着替えて来いよ。茶でもいれるから」 「ああ」 タオル一枚ではどうにもならないいでたちのゾロは、自分でもそう思ったのか素直に頷き、タオルを頭に巻いてラウン ジを出て行った。外から雨の音と幾つかの笑い声が聞こえてくる。それからゾロの怒鳴り声。タオルを顎の下で結んだ その格好は可笑しいと、教えた方がよかったろうかと、サンジは笑った。 こんな風に、ゾロが自分以外の誰かといる事を穏やかに笑えるようになったのは、本当につい最近の事だった。 それまでは、誰かとゾロが話している様子を見るのがただ苦痛だった。それが旧知の仲間であろうと、女であろうと関 係なく、果ては街でぶつかる子供や動物にでさえ嫉妬する有様だった。正直、自分がその様に執着心が強く、嫉妬深 いという事を今まで知らなかったサンジは、そんな自分自身にどう対処してよいのかさえも分からず、ゾロが寝付いたそ の傍で、一人煩悶する日々がしばし続いた。随分と自制の効く身と思っていたがとんでもない。それでもそんなサンジ を、ゾロが嫌そうな顔や蔑ろにしなかったのが、せめてもの救いだ。流石に直接その事でゾロに詰め寄ったり、問いた だしたりはしなかったが、聡いゾロの事、サンジの向ける視線が尋常でない事には気がついていたろう。それでもゾロ はただ、いつも通りにサンジの傍にいたし、他の者とも普通に接していた。その後、何か特別な状況や心境の変化が あったわけではないが、徐々にゾロが隣にいる事が日常になるにつれ、段々と手を放しても平気でいられるようになっ たのだった。 海賊家業を続けていれば、以前のような突然の別れや、簡単な死が隣り合わせであるのは言うまでもない。それが 分かっているからこそ、それまでの短いか長いか分からない貴重な時間を、少しでも一緒にいたい、という焦りがあっ たのだろう。一度その苦しみを味わい尽くしてしまった故に、知らず心は臆病になっていた。 サンジは手早く薬缶をコンロにかける。外ではきゃあきゃあとスコールにはしゃぐ声が聞こえるが、しばらくすれば体 が冷えてラウンジに飛び込んでくるだろう。もののついでと甲板にブラシをかける者も、体を洗う者もいるだろう。どちら にしろ、このラウンジの席がおおよそ埋まってしまうのは目に見えていた。スコールに騒ぐ陽気な海賊たちに、飛び切り の飲み物を用意してやろう。そしてその後は濡れたラウンジを掃除させるのだ。その間にゾロを少しだけ独り占めに出 来ればいいと、小さな望みにサンジは少し笑った。 甘えるような仕草は、昔なら想像もできない世界だ。 ゾロは目の前で毛布の波に包まって眠る男を見る。柔らかな金糸の髪がそっと縁取る顔は、至極穏やかな表情を湛 え、夢を見ているのか、時々瞼が微かに震えて睫を揺らした。 小さな明かり取りから入る光は、まだ幾分朝には届かない。もう少し眺めていてもよかろうと、ゾロはベッドの上で膝を 立てて蹲ったまま、穏やかな気持ちでサンジを眺めては楽しんだ。 お互いに意地を張り、同年を理由にどこか馴染めぬものを感じていたのはつい昨日の事のようなのに、今ではこうし て寝床を同じくする仲になっている。それでもあの頃から既にその様な意味合いで、興味を感じていたのかもしれないと も思う。 自覚のありなしに関わらず。 聞けばサンジもそうであったようで、ほっとする反面、気恥ずかしさが先に立ち、ゾロは思わずサンジを突き飛ばして しまったが、サンジは怒るどころか後々までニヤニヤと笑っていたのは記憶に新しい。何が楽しいのかと聞けば、お前 が帰って来て本当によかったと微笑まれた。そんな風にされれば、ゾロは結局何も言えなくなってしまうのだった。 サンジは不思議な男だ。 女好きを公言して憚らないのに、今ではもっぱら陸に上がってもナンパもせずにいる。それはそれなのだから、気に せず陸を楽しめと言うと、複雑そうに笑って取り合おうとしなかった。一途と言えば聞こえはいいが、ゾロはサンジの行 動を抑制してしまっているようであまりいい気分ではない。 寝返りを打って枕に顔を押し付ける格好になったサンジは、少し苦しそうに喉の奥で唸り声を上げた。しかしそのま ま、また眠りの淵に落ち込んでしまったらしく、呼吸はすう、と寝息に変わった。ゾロは顔の大部分を埋めるように、降り かかった金糸をそっと払いよけ、きちんと顔の見えるようにしてから、また飽くことなくその寝顔を眺めていた。 シャープな線を描く輪郭。ほっそりとした頬は長い月日で柔らかく甘い顔立ちを、精悍な青年のものへと変えている。 眠れば幼子のような眉の線も、眼を開ければ忽ち特有の剣呑な雰囲気へ早代わりする。そういった以前と今との時の 隔たりを見るにつけ、悔恨と同時にどうしようもない愛しさを感じずにはいられず、ゾロは知らず和らぐ視線もそのまま に、まるで生まれたての動物に触れる慎重さで髪を撫でた。 「ん…朝…?」 元々眠りの浅いらしいサンジは、わずかな朝の気配にも目を覚ました。眠りに体温が上がっているせいで、頬がほん わりと朱に染まっている。それが愛しく、ゾロは手の甲でそっと撫でた。 「まだ早い。もう少し眠っていろよ」 サンジは眩しそうに何度も瞬き、眇めた目でゾロを見ようとしているようであったが、目が痛むのか結局は閉じ、吐息 を吐いた。 「お前、何時からそんなに朝早くなったんだよ…」 呟きは掠れて低い。眠りから脱しきれない体は、脱力してぐったりとしていた。 「いいから、寝ろ」 指の背でそっと輪郭をなぞり、額を手で包む。そのまま眠たげに閉じられた瞼にくちづけた。 「うん…」 吐息交じりの返答にゾロは微笑み、髪を撫でてまたくちづけた。サンジは途端安心したようにまた呼吸を眠りに変え た。 「おやすみ」 もう一度、ゾロは深く微笑んだ。 日中のサンジはとにかく忙しい。それは昔も感じた事だが、今はそれ以上に、痛切に感じるのだった。 大人数の食事の準備だけなら、手際のいいサンジならそれほど目に見えて多忙にはならないだろう。だが人数の多 い今はとにかく船内でも揉め事が多い。それを納めるのに借り出されるのは、サンジとウソップだ。船長は小さな諍い にはからきしだし(むしろ煽るのだから始末が悪い)、ナミは我関せずだ(女性陣の大半がそうだ)。船内の環境整備も サンジが一役買っている。放っておけば船内は果てしなく汚くなるのが常だった。そんな風にサンジの日常はとにかく忙 しい。朝から予定が詰まっているし、アクシデントやハプニングは既に予定調和だ。だからサンジが部屋に戻る時は、 大抵疲れた顔をしている。あまり船内で役目を振られていないゾロだが、サンジの代わりに出来るのは、見張りや力仕 事くらいのものだ。だから出来るだけ、少しでもいいから傍にいる時は静かに、安らかにいさせてやりたいと思う。何の 気兼ねもないように、昔のように気楽にいさせてやりたい。笑い合ったり、くだらない事で怒鳴り合ったり。 そんな風に思うのか。この俺が。 ゾロは声を出して笑いそうになり、慌てて口を手で塞いだ。 こんな自分など、昔なら想像も出来ない世界だ。 top / 2 初出 2004/10/03 再録 2011/12/11 |