TSUZUKI Kiyoshi このエッセイは「月刊カメラマン」モーターマガジン社刊、 2002年11、12月号に連載されたものに 加筆、修正を加えたものです。 第一部 パリへ |
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それは、今から4年半程前の晴れた日曜の 午後のことだった。 「プロのカメラマンになるにはどうしたらいいのですか?」 愚かにも、そんな質問をしたとき、僕の目の前に フォトグラファーのY氏がいた。 「都筑君は、どんな写真を撮っているの?」 そうY氏に尋ねられ、ビクビクしながら 見せたのは家で飼ってる犬の写真だった。 「最初は僕もネコばかり撮っていたナ。」 料理写真の世界で一流と言われている、 Y氏の瞳がメガネの奥で微笑んでいた。 大学を卒業して数年間、僕は自分が本当は何がしたいのか、わからないでいた。 その時わかっていたのは、写真を撮ると いう行為が好きで、異常なまでの執着心を 持っているということだけだった。 プロのカメラマンになることなど想像した ことすらなく、その日はプロの方に カメラマンになるのは難しいのかなどという一般論を、 聞きにきただけのつもりだった。 しかし、Y氏は甘い人間ではなかった。 いつの間にやら、昼食に出されたサバの押し寿司を自然光で撮影し、ブローニーのカメラの操作法法を教えられ、バンクライトを組み立て、あげくの果てには、 黒い布を被って、大きな4×5カメラのポラまで、撮らされていた。 すっかり夜も更けた帰り際、何を撮るのが好きかと 尋ねられ、僕は思わず、「街とか、人」などと口走っていた。 「じゃあ、こういうのが好きだろう」 そう言って、Y氏から手渡されたのが、 アジェとブレッソンの写真集だった。 もちろん、当時はアジェもブレッソンも名前すら知らなかった。 ユジェーヌ・アジェは、地方巡業の売れない役者をした後、40歳を過ぎてから 突然、写真家となった。放浪者同然の流しの写真家 などと言われたアジェは生涯をかけパリを撮り続け 記録した。今では20世紀を代表する偉大な写真家と言われ ているアジェに僕は憧れた。カメラマンになれるとかではなく、パリを自分の目で見て撮ること 、それが先決だった。なぜなら、パリが僕をよんでいるからだ。 理不尽な信念と情熱に支えられバイトで旅費を稔出し 、時間を惜しんで仏語の文法と基本単語を必死になって勉強した。 持っていくカメラはコンパクトカメラと友人から、 借りた古い一眼レフ。Y氏からもらった旧式の ピンポン玉型の露出計を握りしめ僕はパリへと向かった。 ソウル経由の格安チケットは3ヶ月のオープン、 日本へ戻る日など決めるつもりはなかった。 黒い大地が見えてきた。飛行機はパリ郊外をゆっくりと旋回し、シャルル・ド・ゴール空港に着陸した。空港から凱旋門でバスを降り、僕は初めてメトロに乗った。手でノブを回さないと開かない反自動のドアに戸惑っていると、黒人の男性がニヤリと笑いドアを開けてくれた。 車内に入ると、アコーディオン弾きの奏でるメロディーが聞こえ、老婦人のバッグから顔だけ出してこっちを見てる小さな犬と目が合った。パリはまさに「おとぎの国」のようだった。 最初の一泊だけは日本から予約できる一番安いバスチーユのホテルに泊まった。 もっと節約しなければならなかったし、僕はパリに住んでみたかった。観光というより、この街に住んでるひとの中に入り込んでみたかった。 そこで、僕が選んだのは、今では危険な地域といわれているガール・ドレ駅の周辺だった。近くには安いスーパーやパン屋があり、暮らし易そうに思えたからだ。 軋む螺旋階段を昇り、幾重にも塗り重ねられた白いペンキのニオイのする部屋に入る。ちゃんと扉の閉まらない古いタンス。窓からはマジェンタ通り沿いの古い建物の屋根から生えてるオレンジ色の煙突が見える。 僕は手を頭の後ろに組み、くたびれたベッドに寝転がる。一泊、約3.000円の安宿、名前は「オテル リベルティ」僕は自由を感じていた。 もう我慢できなかった。パリの全てが見てみたい。趣味がランニングの僕はデイパックにミネラルウオーターとフランスパンを積み込んで、街の中へと走り出した。 サンジェルマンデプレからエッフェル塔のまたの下を走り抜け、アレクサンドル三世橋からセーヌを渡る。チュイルリー公園で、ペットボトルの水を一口飲み、思わずため息をついた。しかし、スゴい。素晴らしい彫刻の数々が、橋の上から公園のあちこちにゴロゴロと無造作に置かれているのだ。どうなっているんだ、この国は。 僕は写真を撮りにパリにやって来た。パリには絵になる街並や人々がいる。それを実際に見てシャッターをきれたら、どんなに素晴らしいかと思いここにやって来た。しかし、今、僕はシャッターをきれないでいた。どうしたらいいのか分からなかった。 なぜなら、全部が絵になっているからだ。どうでもいいような建物から、人々の表情、ドアの把っ手に至るまで全てが美しい絵になっていた。そして、僕は街に魅了されてしまった。ある種、写真なんかどうでもよくなってしまった。 東京では撮影のとき、スタイリストやスタッフがスタジオの中だけ、いやカメラのファインダーの中だけの美しい世界を演出し人工的に作り上げる。でも、ここでは不自然な演出をする必要などなく、普通に美しい世界が存在していた。どうなってるんだ、このパリという街は、僕は戸惑い、どうしたらいいものかと、思い悩んでしまった。 ふと目を挙げると、そこには手で顔を覆うようにして立つ男性の彫像があった。彼も悩んでいるらしい、このチュイルリー公園で。僕は反射的にデイパックからカメラを取り出し、構図をきめシャッターをきっていた。自然と微笑みがこみあげてきた。コレでいいんだ。何かを感じ、楽しみ、それをどう表現するかだけを考えてシャッターをきる。そのためにパリに来たんだ。何かが吹っ切れた気がした。僕は悩み続ける彼を公園に残し、再び走り出した。 あっという間に一ヶ月近くが過ぎていた。毎日街を歩き回るのが楽しくてしかたなかった。近所の人たちと挨拶や天気の話しぐらいは出来るぐらいにはフランス語が上達していた。 しかし、どんなに節約してもわずかな所持金は確実に底を尽きつつあった。 そんなある日のことだった。パリ13区、中国人やアジア系住民の多い地区で、僕は安い定食を食べていた。その時ひとりの若い中国人の男が話し掛けてきた。中国語は話せないと英語で伝えると彼は英語の話せる中国人の青年を連れて来た。どうやら、ひと間違いだったらしい。 人恋しさもあり、英語で気楽に話せる相手が欲しかった僕は、彼との会話を楽しんでいた。彼の名は「グウ」、若い二十歳前後の男の名は「ワン」というらしい。グウは上海の大学を卒業した後、大手の製薬会社で技術者として働いていた。しかし、上海も不況で不慣れな営業職に回され、会社に嫌気がさした彼は、知人を頼って、パリに来たという。 流暢な英語、穏やかな物腰から彼はとても知的な人物に思われた。パリでは皿洗いをしているが、面白くない。そこで、今度は南フランスのホテルで住み込みのアルバイトの口があるので行ってみるつもりだと彼は言った。住居費がかからない分、稼ぎは悪くないのだと。 その時、僕はビールの酔いも手伝い、つい、言ってしまった。 「それって、僕も一緒に行けないかな?」 一瞬、真顔になったグウは言った。 「ボスに聞いてみるよ。ひとりぐらいなら、なんとかなるかもしれない」と。 中華料理店を出て、グウは「どこか」に長い電話をかけた。そして、彼は言った。 「大丈夫だ、で、いつ出発する?」 「いつ出発できるんだ?」そう尋ねると 「おれたちは明日か明後日には行こうと思っていたんだが」 僕は初めて不安を感じた。どうなるんだ、これから? いや、ここで退くわけにはいかない。僕はパリにフランスにまだいたいんだ。「明後日はどうかな?」 「オーケー、じゃあ、明後日の午後9時にガールドリヨンの駅のカフェで。」 グウは単に待ち合わせの場所を決めるように言った。 翌日、僕は荷物の整理をし、バックパックひとつにまとめた。考えてみれば、バカげた話だった。中華料理店で知り合った得体の知れない中国人達と南仏に無許可労働に行こうというのだ。どう考えてもヤバそう。でも、面白そう。何より僕はフランスに居たかった。 南フランスに行く最も安い方法は夜行列車だった。 翌日の22時30分、グウ、ワン、僕の三人の東洋人を乗せたマルセーユ行きの夜行列車は、パリを出発し、やがて、闇の中へと吸い込まれていった。 あとは「勝手にしやがれ」だ。 |
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第一部 完
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