1924年(大正13年)越ヶ谷に教会の幼稚園が出来た。
時の新聞は「2万数千円を集めて立派なキリスト教会堂が出来た。東武線越ヶ谷駅に下車すると異様な形で町から頭を出している建物がそれである」(大正13年4月29日発行二六新報)と報じた。
 時は満ちて、長尾丁郎牧師は、其の年の5月大阪天王寺幼稚園になんの躊躇もなく、壬子(じんこ)先生を迎えに行った。23歳の若さに輝き、園児に愛され父母たちの絶大な信頼を得ている先生を天王寺幼稚園はいっかな放そうとはしなかった。そこで長尾丁郎先生一流の実力行使に及んだのである。当時の大阪と言えども幼稚園は五指を数えなかっただろうと壬子先生はおっしゃる。しかも、純粋に幼児教育に打ち込んでいた中年の園長夫妻のもとで、壬子先生は自由にはつらつと成果を上げていた。
 さて、長尾丁郎先生の壬子先生獲得劇はなんと数分でけりが着いてしまった。即ち関係者が着席されるのを待って、あの大声一番「お祈りします」であった。園長先生夫妻は度肝を抜かれ、あれよあれよと言う間に丁郎先生のペースにはまってついに落城となったとさ。
 それにも増して、幼稚園を任せられるのは妹の「お壬ちゃん」きりないと言う確信があったからである。
 1924年(大正13年)5月12日以来この兄妹名コンビによる幼稚園は町の中に定着し、またたくうちに市民権を得て行ったのである。「幼稚園のジュン子先生」。人々の中にこの愛称は広がって行き「あそこに行けば良い子になるよ」と言うささやきが人々の間に伝わっていった。それは何時か県の教育関係者の耳に入り県より視察が来た。しかし、平然として子供との遊びに徹している壬子先生を見て、其のあまりにもユニークな様子に驚いたそうである。
             ぶらんこは
             私がのって
             児におされ  壬
 徹底的にこどもの中に入り子供の心に成りきって、どうしたら子供が喜んでくれるかそのために日夜心を砕かれた。
 1949年(昭和24年)先生は遂に幼稚園から身を引かれたのであるが、それは、終生絶えることの無い勉学への意欲が大切な眼を酷使し失明に至らせたのである。
 先生の終生の師はフレーベルであった。

天の門 NO36 <特集 幼稚園60年の歩み 「幼子の園」
   “小さな巨人 長尾 壬先生”(訪問インタビュー貴田陽一文より抜粋)