教会堂の移り変わり


旧出羽村より旧越ヶ谷町に進出
1885年(明治18年)8月

 1885年(明治18年)8月越ヶ谷町に進出、説教所に使用する借家を移転すること10箇所の多きに及んだ。1898年(明治31年)3月に至って、伝道者鈴木喜太郎氏の努力と信徒の大奮発によって、集会用家屋を大沢町27番地1号地に求めることが出来て、1908年(明治41年)9月までに及んだが後に伝道上の便宜のため同年10月、越ヶ谷町256番地(現在の越ヶ谷3丁目6)に移転した。長尾牧師が就任したときは、このぼろ家が会堂であった。         
(70年史より)

駅前通りの教会
1924年(大正13年)5月5日献堂式を挙行

 1924年(大正13年)5月 越ヶ谷駅前通り(現 越ヶ谷2丁目4)に教会堂を竣工。
 当教会の会堂新築について「二六新報」(大正13年4月29日発行)は全国版に次のような記事を載せた。
 「寺院の少ない埼玉はキリスト信者が割合に多く殊に老人が多い」と言う見出しで、「埼玉県一帯に古来から仏教寺院建立の歴史が少なく従って今日に於いても甚だ稀で殊に真宗寺院の少ない事は全国随一である。処がこれに反してキリスト教がその住民の中に割合に多く了解されていて八十歳以上の信者並びに理解者が多いことは一寸変わった現象と言うべきである。而して更に面白い事にはキリスト教の会堂の建立でついこの程まで会堂建立の運動もなく僅かに微々たるものが二三しかなく、多くは家庭に集まって礼拝して満足している程純な信者が多いのであった。処が今回埼玉県越ヶ谷町に二万数千円の金を集めて立派なキリスト教会堂が出来上がった。それは日本キリスト教会派の牧師、長尾丁郎氏が奮起して全部を老人から拠金せしめ建立したもので、東武線越ヶ谷駅に下車すると異様な形で町から頭を出している建物がそれである。もう二三日で完成し来月五日の聖日に献堂式を挙げ東京よりも多数関係名士が参列する事になっている」                    
(70年史より)
付記
1922年(大正11年)3月26日、臨時総会を開き、会堂建築案を満場一致で可決した。予算を6千円とし内2千円信徒献金、2千円を全国諸教会に援助を訴え、2千円はミッションの補助を仰ぐこととした。
1924年(大正13年)6月、「越ヶ谷幼稚園設備に関する御願の主旨」を外部に訴えたところ、予期以上の支援が与えられて余りある状況であった。
                                  (70年史より抜粋)
以上のことから、新聞記事の「2万数千円全部を老人から拠金せしめ」は間違っていると判断する。(田中)
尚、この教会堂は1929年(昭和4年)12月25日、クリスマス祝会中にストーブより失火、教会堂を半焼した。

御殿町の教会
1931年(昭和6年)5月17日献堂式を挙行
中央建物が教会堂


1930年(昭和5年)1月26日復興委員会を開き半焼した会堂の応急修理をし、2月2日の礼拝よりこの修復会堂で諸集会を行う。同時に新会堂の敷地を御殿町の牧師館隣地に定めた。同9月建築が始まり、
1931年(昭和6年)5月17日 御殿町の新会堂の献堂式を挙行。
1976年(昭和51年)8月までこの会堂で礼拝を守った。

現在の教会
1977年(昭和52年)6月12日献堂式を挙行

1971年(昭和46年)3月28日会堂建築に関する臨時教会総会を開き、新会堂の建築を決定。
1976年(昭和51年)7月18日会堂建築拡大委員会を結成。岩井要氏に設計を依頼西松建設に建築を依頼し、総工費1億4700万円を決定した。
1976年(昭和51年)9月より1977(昭和52年)4月までプレハブ園舎で主日礼拝・保育・諸集会を行った。
1977年(昭和52年)6月12日、現在の教会の献堂式を挙行。
1977年(昭和52年)6月29日 幼稚園落成式を挙行。
1977年(昭和52年)6月18日 御殿町近隣の方々に新会堂・新幼稚園舎を披露した。
幼稚園ホール
1977年(昭和52年)6月29日落成式を挙行

 園舎ホールは保育のオープンシステム形式の実現を可能にしたもので、一階も二階も周囲の保育室から子供たちが自由に出会い遊び交わることが出来る。これは、建設時に教会が幼稚園を優先にして下さった優しい心が現れている。亦、吹き抜けの天井からは自然な明るさが射し込み、まさに開放的な園舎である。
このホールは外部からの方々を招くキャンドルサービスをはじめ、年二回の合同礼拝(幼稚園・教会学校・教会)等には、両側の階段、二階の廊下を立体的に使用して500人余が礼拝を守ることが出来る。
                                       (田中郁子記)