その肢体として
牧師 石橋秀雄
越谷教会に赴任して第一に感じることは、やはり人的に恵まれているということである。(数の上でも層の上でも)。
開拓伝道を始めたある牧師が、「本当に必要な援助は、人的援助だ、ある期間、教会学校の教師を送ってくれる教会はないか」と切実に訴えておられた。
小さな教会にとって一人の信徒が育つということは教会の大きな力であり、一人の信徒が去るということは大変な痛手となる。私も11年間そんな教会に仕えてきた。一人一人が教会を支える力であり、又そのことが切実に求められる教会であった。このような一人一人との生きた関係は、人が増えるほど希薄になりやすい。そこから教会への物足りなさ、冷たさを感じる人も少なくないと思う。牧会者の一人一人への魂への配慮を怠ってはならないが、しかし最も大切なことは一人一人が「主はこの私を救い、主の体なる教会の一つの肢体として召し、用いようとしておられる」この主の召しへの目覚め、自覚ではないかと思う。
この世のはかりによれば、働きの大小によって価値が計られる。しかしキリストにおいては、私たちのからだの肢体一つ一つがそうであるように、一人一人が、主のからだの一つの無くてはならぬ肢体として受け止められ、その肢体としての業が期待されているのである。
「もし一つの肢体が悩めば、ほかの肢体もみな共に悩み、一つの肢体が尊ばれると、ほかの肢体もみな共に喜ぶ。あなたがたはキリストのからだであり、ひとりびとりはその肢体である。」(第1コリント12章26〜27)
一つの肢体の痛みは全体の痛みであり、何よりも頭なるキリストの痛みであり、一つの肢体の働きが弱れば、身体全体の働きを弱め、不健康なものにしてしまう。キリストの身体なる教会が不健全なものになってしまうのです。
ある信徒がメイン・アンプのキットを買ってきて製作した。完成してスピーカー等に接続したが音が出ない。相談を受け配線図を頼りに調べてみたら、小さなコンデンサーの接続が間違えていた。たった一つのコンデンサーの配線ミスでも音は出ない。どんなに小さな部品でもステレオ装置には無くてはならぬ大切な部品である。一つ何万円もするトランスが、何十万とするスピーカーが、自分の価値を誇っても、小さな部品一つ一つが正しく働かなくては、その力を発揮出来ないのである。一つ一つが正しく組込まれ接続され、自分の役割を忠実に果たす時、初めて美しい音楽が鳴るのである。同じように私たちの教会においても、福音が人々の心にその救いの調べとして鳴り響かせるために、すでに主のからだなる教会の一つの肢体として組込まれていることを自覚し、働くことが求められている。
一つの部品が外れかかっていると音が歪んでしまうように、越谷教会に連なる一人一人がキリストのからだなる教会に正しく結びつき、その業を担うものでなくては、福音の調べは歪んだ聞き苦しいものとなってしまうのである。地域社会に福音の喜びを響かせる為にキリストの肢体としての自覚を強めたい。
(昭和56年11月22日発行 「天の門 No32」より)
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