歓喜の聖徒と言われた「長尾巻」

 長尾巻(まき)は嘉永5年(1852年)父長尾八内と母はつの間で、金沢奥屋敷長尾主計方で生を受けた。幼名を平冶郎と言い、後年巻と改名した。さてここで巻の父、長尾八内について記しておきたい。
 
「長尾八内のこと」 
 長尾八内は文政6年(1823年)金沢彦三町で、代々前田候の家老職を務める家で生まれ、三歳の時父と死別、母は実家へ帰り家臣長屋家で養われた。長じて、嘉永6年(1853年)前田候に仕え、二千三十石の国家老となった。安政4年(1857年)高岡奉行になる。安政5年は飢饉の年で、金沢始め各地で米騒動が起こり、7月16日高岡でも貧しい人たちが蜂起して、打ち壊しが始まった。この暴動のさなか、奉行の長屋八内が「火事はもう消えたから家を壊さなくてもよい」と馬上から叫んで行くのを、町の人々は妙なことをいい歩くものだと不思議な思いを以って眺めた。前田藩の城下金沢では騒ぎの首謀者は捕らえられて死刑に処せられ、他の地域でも続々と張本人が死罪になった。高岡の町人達は身震いして藩の公事方の裁判結果を心配した。公判廷において長屋奉行は「高岡に米騒動は無かったが火事があった。町民は火を消す為に家を壊した。自分は馬上から火が消えたから、家をこわすなと制して歩いた」と暴動を否認する証言をしたので、高岡から一人の罪人も出なかった。翌安政6年2月長屋奉行は藩侯に辞表を出し、ひそかに夜陰に乗じて金沢に帰った。高岡町民の長屋八内に対する敬慕の念は熱く、桜馬場に長屋神社を建て長屋様祭りと称して祭礼を今に至るまで欠かさない。このことは、昭和11年越中名刹高岡山瑞竜寺の国宝建造物大修理の時、解体した釈迦堂棟木の張板の裏に、安政5年の高山地方の米騒動と、これを鎮撫した長屋奉行の徳をたたえた文字が墨痕鮮やかに記されているのが発見されている。
金沢へ帰った八内は、文久3年(1863年)加賀宮の腰町奉行となり、本姓の長尾姓を名乗っている。

「浦上四番崩れと長尾八内の出会い」
  徳川幕府は安政5年(1858年)アメリカ、イギリス、ロシア、オランダ、フランスの5カ国と通商条約を結び、寛永16年(1639年)の第五次鎖国以来約200年に及ぶ鎖国の扉を開いた。
 慶応元年(1865年)長崎にフランス寺(大浦天主堂)の献堂式が行われ、十数人の隠れキリシタンたちが天主堂を訪れた。この後浦上をはじめ、五島、天草、筑後今村などに潜んでいたキリシタンたちが次々と天主堂に来て神父の指導をうけた。慶応2年(1866年)プチジャン神父が日本代牧司教に任命され、日本の近代カトリック教会が発足した。しかし、天正15年(1587年)の豊臣秀吉のキリスト教禁令以後、江戸徳川幕府も禁令を続けており、慶応3年(1867年)6月浦上のキリスト教徒68人を逮捕した。さらに明治政府は諸外国のきびしい抗議を退けて、明治2年(1869年)浦上キリシタン3394人を逮捕し21藩に流刑した。そのうち金沢前田藩には526人が預けられた。金沢郊外卯辰山に幽閉されたキリシタンたちは、向山の開墾に従事していた。その働き振りを見て、監督をしていた八内は、深く打たれるところがあったという。それはキリシタンたちが、貧苦と屈辱の中でも持ち続けた、天帝に対する信仰心と、生活態度であった。

「長尾八之門と長尾巻の入信」
 明治5年(1872年)廃藩置県が行われ、身分制廃止と戸籍簿改正のとき、巻は平冶郎改め巻と名乗る。翌年父八内も八之門と改名し、翌明治7年隠退(隠居)し無一と号し、名を八之右衛門と改めている。
 明治6年、260年余続いたキリスト教禁制の高札が撤廃された。そして明治12年9月(1879年)米国人宣教師トマス・ウインが金沢で伝道を始めた。トマス・ウインは明治10年、26歳の時、夫人をつれて横浜に来朝し、横浜で2年間、日本語を研究したのち、金沢に移り住んだのである。以後北陸、関西などで伝道し、昭和6年2月金沢教会で礼拝中、講壇に立たれる直前に召天された。
 明治13年4月、八之門はウイン宣教師からキリスト教を学び、「太陽が出たのに提灯に頼るべきでない」と率先して洗礼を受けた。父を心から尊敬していた巻も、同年6月ウイン宣教師から洗礼を受けた。金沢はじめ北陸は人も知る真宗王国の地で、クリスチャンになった長尾一家の苦難の始まりであった。当時、巻は松え夫人と結婚し紙漉業を営んでいた。28歳のときである。
 明治14年5月、長尾八之門父子外11人が設立者となって、金沢日本基督教会を創設した。
 八之右衛門は殿町教会の長老を勤めていたが、明治36年1月巻の三女、丙留さんの看護を受けながら天に召されている。享年81歳であった。

「北陸伝道の始まり」
 長尾巻は、明治16年1月、ウイン経営の北陸英和学校神学部に入学し、神学部で学ぶかたわら、富山市星井町、同惣曲輪講義所に伝道者として勤務している。このころの長尾家の家計は火の車で、松え夫人は次のように語っている。                  
『富山に行くについて、着物は皆質屋に置いてあるから大困り。鏡台も針刺も売り払って、後事を主人の姉の丹羽という方に頼んで、富山へ行った。主人は先に行って伝道していた。九合とかいう家に1年くらい居て、次に本町に石川さんという方が教会を建てたので、そこに半年くらい居て、そして金沢へ帰った。富山へ伝道にいった時は貧乏の一番どん底。月給は三ヶ月間一度も来なかった。そのうち丹羽さんが、質屋に預けてあった私の着物を出して、皆売ってしまった。私は安心していたのに、えらいことをされた。拵えてまだ着ないものもあった。金沢へ帰るようになって、着物が無いので、家主のお婆さんの浴衣の古手を、70銭で売って貰って着て帰った始末でした。その時、私は24歳でした。』
 明治19年1月長尾巻は、金沢新任の宣教師ゼー・ビー・ボートルの招きで、富山市を引揚げ、金沢市金尾町講義所の主任伝道者になった。巻は同年4月、大阪に開かれた日本基督教会浪速中会にて、伝道者の准允を受け、同年10月9日、殿町日本基督教会を創設し、聘せられて同教会の主任伝道者となった。
 なお巻に長子が生まれるや、八之右衛門は巻夫妻に「あなた方は10人の子供が恵まれる。神様のさずかりものだから大事にしなさい」といった。巻は十干にちなんで長女を甲(キノエ)と命名し、以下、次女は乙妃、三女丙留、長男丁郎(越谷教会)牧師、大正10年から昭和42年迄)、次男戊二、三男己(洋画家)、四男康七、四女辛、五女壬、五男一郎と10人の子供に恵まれた。
 長尾巻は殿町教会を牧する傍ら、小松町の伝道を託されている。

 「大聖寺町における伝道」
 大聖寺では、前任の伝道者が会堂建築で上棟した建物を破壊され、止宿していた宿まで町の人が押しかける等、ヤソ排斥の群集の妨害に会い、伝道が中止されたところである。明治29年5月、長尾巻牧師はこの困難な大聖寺へ単身で転任する。弓町に家を購入したが、キリスト教の伝道者と知った町の人達が、家をはさんで両方の辻に竹矢来を組み、道を塞いでしまった。竹矢来を回された一廓の人達の息巻いた喚き声を聞いていた彼は、その後町の組合へ行き、「弓町は目抜きの場所だから、町内の方々のご都合の好いところへ移りましょう。しかし、伝道は止めるわけには参りません」と言うと、やっと中新道の家を買い取るよう世話をして、移転する便宜を与えた。
 ところが、すでに家族とも一緒に暮らし始めた長尾家に対して、町内では不売同盟を起こし、米をはじめ日用品まで売ってくれなくなった。兵糧攻めに会った家族は、週二回交代で18キロ離れた小松へ行き、食料から日用品を仕入れたという。また、金沢から来た坂野嘉一氏と相談をする為に出掛けた留守に、居宅に“生首”を投げ込まれる事件があった。座敷の上に色青ざめた総髪撫で下げの生首と、「ヤソに加担する者はこのように処分する」と書かれた紙が置かれていた。よく見るとそれは、芝居の衣装方のものとわかり、買い取って大聖寺伝道の記念として、今に長尾家に伝えられている。迫害は子供達にも及び、丁郎氏は学校で弁当に唾を吐き掛けられたり、丙留さんは帰りに土手から川へ突き落とされたりした。日曜日の夜の集会では、一人の聴衆者もいないことが度々あったが、柱に向かって一生懸命説教をしたという。
 このような迫害の中で、日曜学校もはじめの頃は、巻の子供達5人と、教会の向かいに住む大聖寺税務署長の峰さんの子二人、お隣の農家の子を合わせて8人であった。後年、このなかの一人峰貞治が、伝道を志して神戸中央神学校に進んでいる。また明治34年3月までの5年間に、二人の受洗者が与えられている。この苦難の5年間、伝道をした大聖寺を引き上げ金沢へ帰るときは、巻の人柄を知った多数の人達が、別れを惜しんで見送りに来て、これまでの失礼を謝すと駅まで送ってきた人もいた。
 
「豊橋伝道時代」
 金沢に移った長尾巻は、殿町伝道教会在任3年10ヶ月、金沢市森下町講義所で文書伝道雑誌「夜光」の事務主任2年3ヶ月を勤める。その後、愛知県豊橋教会から招聘を受け、主任者として豊橋に移り住む。明治40年5月であった。
 巻の家族は東八町に住み、有志や宣教師ジョン・バラ夫妻、宣教師マヤス氏の力添えでミッションからも寄付を得て、旭町に教会堂を建てる。明治41,2年頃の秋、例年のように東八町裏の錬兵場で招魂祭があったとき、その一角で路傍伝道を試みた。巻は当時12歳を頭に三人の愛児、(四女辛、五男一郎、五女壬)を輪型に並ばせて、讃美歌を歌わせた。この珍しい光景に集まってきた大勢の見物人に、巻は力を振るって道を説いている。この頃明治学院の学生であった賀川豊彦が巻の家庭に逗留し、伝道を手伝っている。長尾巻は明治45年6月に岐阜県安八郡大藪日本基督教会に転任し、同郡大垣日本基督教会を兼任している。豊橋における伝道生活は5年間であったが、33人の受洗者が与えられ、21人の入会者があった。この年の7月30日に大正と改元され、巻は8月5日をもって還暦を迎えている。
 巻は「自分一代の伝道では物足りないことを痛感していた」ので、長男丁郎氏を神戸神学校に学ばせ、卒業後浪速中会から大垣教会に後任者として迎え自分は休職している。長尾巻65歳のときであった。そして、予てより願っていたミッションの補助を受けない自給伝道のために名古屋に移り住んで、名古屋市広小路に設けられた協同伝道館のために尽力を始めた。
 長尾巻についてはもっともっと書くことがあるが、最後に賀川豊彦の言葉で締めくくりたい。

「長尾巻に対する賀川豊彦の言葉」
 『長尾巻はこの世では位はなかった。牧師は皆貧乏だが、これくらい貧乏な牧師は見たことがない。明治40年豊橋に行ったが、肺病で彼のぼろ二階で親身も及ばぬ世話になった。自分は彼の中に平凡の生命芸術を見出した。日本人は何十年たっても長尾巻に多く教えられるに相違ない。長尾巻は貧乏、迫害、キリスト道による苦難を信仰によって突破しきったところの武者修行をしたキリストの武士であった。その根気強い点で彼ほどのものを知らない。名古屋諸教会連合の早天祈祷会を十数年続けたものは彼ただ一人であった。
 毎朝抜ける顎髭を10カ年間ためたのが八千六百三十三本、これで筆を作り、気根筆と名づけ子孫に伝えている。彼は貧乏のドン底にいながら愚痴、不平を一度だって彼の口から聞いたことがなかった。また彼が怒ったことを見たことがなかった。乞食を極めて丁寧にあしらい、行き届いた世話をした。いつも乞食を泊めるのでノミとシラミがわき、これをとって溜めたため、これを瓶詰めにして家宝として長男丁郎君に残している。自分が困っていながら、貧乏人を助けた。日本中の牧師で自分が一番感心し、自分が一番感化を受けたのは長尾巻である。日本にこのような伝道師が出たことを神に感謝する。私は彼が完全なる基督芸術であると思っている。日本にもこのような奥床しい聖徒が存在し得たかと思うと、私は嬉しくて嬉しくてたまらなくなる。長尾巻に接し、新約が日本人のものになったと思った。こんなのを「聖人」というのだと思った。「隠れた聖徒」これが長尾巻に贈るべきもっとも適当な称号であると思う。』
    
 この文は長尾家の親族の方からお借りした資料、「長尾巻物語」(一粒社書店)、「長尾巻の余韻」、「人間賀川豊彦」(キリスト新聞社)、 「日本キリシタン殉教史」(時事通信社)等によるものです。 (作成:中井勇二)