祖母の家の真向かいにある小さな病院。1m四方ほどのエレベーターで、1階、2階3階、ひとつとんで5階……薄暗く狭い廊下に並んだまんなかの部屋に、祖母は寝ていた。
 呼びかけると、ぼんやり目をあけて、「じゅんちゃん。」と父の名を呼んだ。
 わたしと母のことは、わからないようだった。
 入れ歯をはずされた頬はくっきりとくぼみ、長かった髪も、首のうしろでざっくりと切りそろえられ、どこかよその知らないおばあさんのようだった。
 見舞いを終えたわたしたちは、隣家との間にある、1mほどの狭い道を通り、裏口から祖母の家にはいった。
 自分たちでカギをあけてこの家に入るのは、初めてだった。
 主のいない、がらんとした家……。「こんにちは」と言うために、緊張する必要もなかったし、部屋にあがっておもいきり足を伸ばして座っても、叱られなかった。
 亡くなった祖父の写真が、鴨居の上から微笑んでいた。
 その後祖母は、車イス姿の自分を周りに見せたくないと、リハビリを拒み続け、ベッドの上で3年間過ごして死んだ。
 嫁いできてからは、夫や看護婦さんや患者さん、子供たちの世話に気が休まらず、「一晩でいいからゆっくり寝たい」が口癖だった彼女は、自分の最期に満足だったろうか。
 ひとみしりの激しかったわたしは、彼女とうちとけて話す機会もなかった。

 その家も、先の阪神大震災で倒壊し、今は新しく建て直した家で、叔父があとを継いでいる。

   

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 祖母はプライドが高い人だったので、母が外へゴミ出しをしようとすると、「○○家の嫁がゴミを持っているところをみられたら恥ずかしい。」と言って、絶対に母にゴミを捨てさせようとしなかった。
 わたしが24歳の頃、祖母が脳軟化症で倒れたという知らせがきた。