中学高校とすすむにつれ、わたしはクラスの中で、自分だけが浮いていて他の生徒と
違うと思うようになった。なにを話していいかもわからなかった。
 お弁当を食べる時や、班編成の時に、仲間はずれにされたりはしなかったが、自分が
いつもお客さんのような気がした。
 ひとりでいる方が楽だったが、見栄っ張りのわたしは、周りからひとりぼっちであると思
われることが苦痛だった。
 定期試験の前はいつも、何週間も前から予定をたて、その通りに勉強をしたので、結果
は良かった。トップに自分の名前が呼ばれたときだけ、わたしはクラスの中に自分の居場
所を見つけたような気がした。
 テストの日の朝になると、母はさりげなく玄関に待ち構えていて、登校しようとするわたし
に向かって、これまたさりげなさを装って「今日は100点ね。」ひとりごとのようにそう言った。
 高校の時に入部したマンドリン・ギター部では、仲の良い友達もでき、それなりに楽しくや
っていたが、進学に熱心ではなく、お祭り高校として有名だったので、このまま部活動を
続けていては、受験に差し障るという母のひとことで、わたしはなんのためらいもなく、2年
生の夏に退部した。
 なんのために進学するのか、深く考えたこともないまま勉強はしていたが、少しでもつま
づくと、わたしは、自分を煽り、せきたて、かりたてる、見えない何かに対して苛立ちなが
ら、テキストを引き裂き、壁に叩きつけ、階下からテレビやラジオの音が聞こえると、それ
を上回る音で、床を蹴った。ものにあたりちらし、爪を喰いちぎりながら、化学式を暗記し
た。
 両親は気づいていたとは思うが、ストレスの多い受験生のことだからと思ったのか、何
も言わなかった。
 勉強をやめてしまうと、家でも学校でもわたしの居場所はなくなってしまうと思い、手を抜
けなかった。
 大学にはいりさえすれば、20歳になりさえすれば、おとなになりさえすれば、わたしは楽
になれると信じていた。
 受験勉強中の不規則な生活がたたって、もともと小太り体型だったわたしの体重は、大
学に入学する頃には身長150cmで、52kgに増えていた。
 前から歩いてくるわたしの姿を見つけた母は、「丸太が歩いてくるのかと思った。」呆れ
たようにそう言って笑った。
わたしはそのひとことで、母に受け入れられるにはまだ自分が不完全だということを知った。
 その日から、夕食のおかず以外ほとんど何も食べず、電車で2駅離れた大学までせっ
せと歩き、クラスメートがケーキ食べ歩きツアーで盛り上がっていても、話題にはのらず、
お酒も太るからとコンパもできるだけ避けた。
 やむをえない付き合いの時には、食べるフリをして、ティッシュに包んでこっそり捨てた。
 当時パン屋でアルバイトをしていたが、甘いパンやケーキの匂いに目が回りそうだった。
 足はガクガクしたが、気持ちは高揚していた。
 3ヶ月間で9kg痩せた時生理がとまった。
 わたしはすぐにダイエットを中止し、治療に通い始めた。このまま子供が産めなくなった
らどうしようという恐怖と不安で一杯だったが、初孫を両親に見せられないことへの罪悪
感もあっったように思う。
 「適齢期」、そういう言葉が当時横行していた。
 25歳の時、父の勧める相手と結婚して、宇都宮に住んだ。相手は7歳年上の、極端に
無口な人だった。
 結婚してからも、わたしは新しい料理をつくるたび、新しい店を近所に見つけるたび、母
に報告し、賞賛と関心を得ようとした。
 生まれたばかりの初孫の写真を山ほど送った。
 横浜の実家から何日も電話がかかってこないと、忘れられてしまった気がして落ち着か
なかった。
 一方では、何度も夫を挑発し、わざと激怒させ、「横浜へ帰れ!!」と怒鳴られては、必
死に言い訳をし、あやまった。自分でもどうしてそういう態度をとってしまうのかわからな
かった。
 どこでそんなに手にいれたのか、離婚届の用紙の束を、食器棚の1番目に着くところに
置いておかれても、わたしは気づかないフリをしていた。
 そればかりか夫を悪者にし、同情さえかおうとした。
 両方の親を巻き込み、翻弄した挙句、わたしは2歳の息子を連れて離婚し、実家に帰っ
た。
 3年と3ヶ月だった。
 新幹線の定期を買った方がお得だったのではと思うほど、頻繁に横浜の実家に帰って
いたので、実質的な結婚生活はその半分にも満たなかったように思う。
 初孫を連れて帰ったことで、少しだけ申し訳がたち、うけいれてもらえるような気がした。
 公証役場で、養育費の取り決めを行い、家に帰ってきてから母は、「まさか自分の娘が
こういうことになろうとは思わなかった。」と嘆いた。

 もうわたしに期待されるものは何もない……。
 たっぷりの罪悪感を感じながらわたしはそう思った。


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