葬儀には男女1人ずつの僧侶がやってきた。
 お経は「ねんねんころり」の子守唄の曲に節がとてもよく似ていたので、わたしは子供向けのお経があるのだと思った。
 わたしのすぐ横の座卓の上に、祖母が封筒を置いた。
 わたしは思わず「ありがとうございます。」と礼儀正しく言った。
 すると、祖母は「あ、これはね。」と言ってその封筒をさりげなく遠ざけた。
 気まずい雰囲気が残った。
 わたしは遠くに住む祖母から、お小使いやお年玉をよくもらっていたので、わたしの近くに置かれた封筒は自分へのそれだと思ってしまったらしい。
 あとになってこれが香典だったと知った時、わたしは穴があったら入りたい気持ちでいっぱいになり、祖母がこのことを忘れていてくれればいいと願った。
 弟を柩におさめたあと、母がフエルトでつくったバンビとキリンのぬいぐるみがいっしょに中に入れられた。
 「ひとりだと寂しいでしょう」母の言葉に納得したものの、お気に入りのバンビとキリンもいなくなってしまうことが悲しかった。
 窓に白いレースのかかった、黒く細長い車のうしろに小さな柩は置かれた。
 車が出発するとき、見送りの人たちが一斉にこちらにむかってお辞儀をした。
 わたしも両親に倣ってお辞儀を返した。なぜか晴れがましい気持ちがした。
 火葬場に着くと、「ジュース、飲むか?」父が聞いた。
 こんな時にそんなことを聞いてくるのが不思議だった。
 骨が焼きあがると、両親と3人で骨を拾った。
 「これが歯の部分です」職員が丁寧に教えてくれたが、そこには細かく砕けてバラバラになった白い骨があるだけで、赤ん坊の姿をした弟とを結びつけることはできなかった。
 遠くからやってきた親戚や知人がみんな帰ってしまったあと、線香の匂いとともにスズムシの鳴き声だけが残った。
 夏の夜の花火にも夜店や盆踊りにも、いまだにわたしが馴染めないのは、イベントが終わって、みんなが帰ってしまったあとの、あの静けさやさびしさを予感するからかもしれない。
 それからは弟のことは誰の口にのぼることもなく、−少なくともわたしの前ではー彼の存在はいっときもこの家にはなかったかのようだった。
 いつも粉ミルクを注文していた御用聞きが、何も知らずにやってきた時、「死んじゃったの」母がドアのチェーン越しに言っているのが聞こえた。
 さすがにメリーゴーランドの飾りの部分はすぐにとりはずされたが、オルゴールの部分は捨てきれないまま、いつまでも天井から下がっていた。
 しかし、それもある日母がハタキをかけた拍子に床に落ちて割れた。
「ごめんね」仏壇に向かって母はそう謝った
 その夏の間中鳴いていたスズムシは、共食いを重ねたあげく、卵も残すことなく一匹もいなくなってしまった。
 近所に住む友達の母親が卵をあげると何度か言ってくれたが、母は決して分けてもらおうとはしなかった。


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