塞ぐ

 両親の人間関係は2人の間で完結している。
父は母の父親であり、ご主人様であり、息子であり、保護者であるし、母は父の妻であり、母親であり、友達である。
定年を迎えて家にいるようになった父と母はデパートなどでイベントがあると、「話のタネになるから」とよく連れ立って出かけるが、近所との交流もなく、友達もいない、かかってくる電話といったら、マンションや墓地の勧誘ばかり、それなのに一体、その話のタネは誰に話すというのだろう。
 「お客さんが来た時のちょっとした手土産にいいよね」と言って、2人で旅行に行った先々で、小物類を買ってはくるが、最近我が家に来た客といって思い当たるのは、10年以上前にわたしに子供が生まれた時に、親戚がやっ
てきた時以来ひとりもいない。
 話されるアテのない話のネタや、渡されるアテのない手土産だけが、どんどん増えていっている。

 お互いに、すきまをピタッと塞ぎ、そこですべて満たされるような、そう錯覚されるような人間関係がわたしの家にはあった。
 実際には、家族という固定した関係だけでは、心の隙間や虚しさを埋めることは不可能で、閉塞感だけが存在していた。
 たまに親戚が泊まりに来ると、閉鎖的な空気に風穴があいたようで、ほっとした気分になったのを覚えている。
 人間関係ばかりではない。
 わたしは趣味、仕事、心を満たしてくれる完璧な「何か」を求めて暮らしてきた。
 自分の全存在、全人格を預けられる、完璧な何か。
 そのためには、それを得るためには、自分自身も完璧でなくてはいけない。
 両手一杯に抱えきれないほどの荷物を抱え、本をむさぼり読み、せきたて
られたように行動しながらそう思っていた。
 本当は他人の存在やモノ、資格、地位で、自分に欠落したものを塞いでも
らうことなどできるわけがなかったのだ。
 
 もうそのことに気付いてもいいはずだ。


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2001/11