子供の昔のおもちゃの中から、遊園地や映画館の入場券の半券を見つけると、わたしはせつない気持ちでいっぱいになる。
日曜日や夏休みには、家族で出かけ、家の中には葛藤や仲たがい、もめごとなど一切なく、何でも話し合える円満な家庭……わたしの父はそういう1960年代の理想の家庭を目指していた。
わたしは、そういう家庭を構成する要素として見なされていたので、そのイメージにそぐわない感情―怒り、悲しみ、退屈、憂鬱―は外に表してはいけないものとして、受け入れられなかった。
家族旅行に出かけると、「良い家族」の証拠集めのように、スナップ写真を撮りまくったが、わたしはカメラを構えた父の前で、「自然に振舞う」という不自然を演じた。
クリスマスの日の朝、枕もとに置かれたプレゼント。うれしかったが、何となく照れくさくてモジモジしていると、「子供らしく喜ばない」と言って両親はひどくがっかりしていた。
両親ともに、子供は親を頼りにし、たてるものであると信じていたので、わたしが両親の提案を素直に受け入れないと、「拒否した」と言って騒ぎ、親に相談なくものごとを決めると、露骨にイヤな顔をした。
わたしは、昔から親に甘えることをしない子供だった。
「神奈川にはテレビが売ってないから」そう冗談めかして、父は神戸の自分の実家から、テレビや、少し値の張るものを時々ねだっては送ってもらっていた。
おそらくわたしにも、そういう「かわいげのある」甘え方をしてほしかったにちがいない。
期待はずれの態度をとると、父はなにも言わなかったが「パパがかわいそう」そう言って母がたしなめた。
わたしは子供の頃、父に叱られた記憶がない。
「妻たるもの、夫の悪口を言ってはいけない」と常々口にし、実行していた母だったが、1度だけ「いつも叱り役のわたしばかりが悪者になる。パパがあんたを叱らないのはあんたに嫌われたくないからよ」そう言ったことがある。
それは本当だろう。
父は自信がなかったのだ。
父親としての自分を、わたしの評価に頼っていたのだと思う。
「えらくて何でも知っている優しいパパ」、このイメージにそぐわないことは、存在していても家中で見て見ぬふりをした。
現役のころは、会社から帰るなり、同僚がボンクラで、自分がいかに有能かを得意げに吹聴し、母はそれを、まるで学校から帰ってきた小さな男の子の武勇伝を聞くように、同調して聞いていた。
今になってみると全く滑稽なことだが、「重役」「ホテルに泊まる」「牛肉を食べる」
この3つの言葉を、父は自分のステータスシンボルのように好んで使った。
妻子に頼られ、何かをしてやり、そして感謝されること、虚勢をはり、肩書きにしがみつき、常に優位にあること、そういうことでしか自分の存在価値を確認できなかったのだろう。
そういう意味では、「わたしがいないと、みんな何もできない。」と文句を言いつつも家の中の細部にわたって目を光らせ、把握することで自分の存在を確立しようとした母も同じであったのだ。
自分の全存在を預け、なんでも父のあとについて歩いてきた母が必死に守ろうとした父のプライド、それは母自身のためであったのだと思う。
ただ―
何日も前から旅行や切符の手配をし、妻子を日陰に待たせ、自分は真夏の日差しがカンカン照りつけるところで、汗をタラタラたらしながら順番待ちをしていた父の姿を、わたしは入場券の半券の記憶とともに忘れることはないだろう。