言葉

 幼稚園のころからずっと日記をつけていた。
おそらく「書く」という習慣をつけさせるための母の「教育的」配慮だったの
だろう、書いた日記をいちいち母の前で朗読していた時期もあった。
 子供の日記というものは、多かれ少なかれそういうものかもしれないが、
あたりさわりのない、淡々とした事実の羅列……。
 おかしくて噴き出してしまうようなこともたくさん書いてあるのだが、なんと
言ったらいいのだろう、説明的で、言い訳のような文章、「わたしのすべてを
白状します」どこかそういう雰囲気が漂っている日記だった。
 そのくせ、学校や家で当然感じていたであろう妬み、悲しみ、怒り、悔しさ、
そういったものは何ひとつ書かれていない。
 そういうものは、あってはならないものと自分で否定し、受け入れようともせず、
「がんばろー」と口先だけで明るく叱咤激励していた。
 ほとんど毎日書き続けていたけれど、受験勉強の最中は中断していた。
否が応でも自分の内面を見つめることになる日記を前に、不安や迷い、認めた
くないものに向き合うことを恐れていたのだと思う。
 言葉に表してしまえば、もはやごまかすことができなくなると思っていたのだ。
 成人してからも、やっぱりわたしの日記の傾向は変わらなかった。
 自分の中の「クサイもの」に気づきそうになるたびに、あわててフタをし、理屈
で分析しようと試み、「今のわたしはどうあるべき」で締めくくり、終わらせようと
していた。

 わたしの本当に聞いてほしかったこと、話したかったこと、それは自分の日記
にさえ書けなかったような事だ。
 その1つ1つを具体的に思い出すことはできないほど遠い昔に心の中に閉じ込
め、くすぶらせ、置き去りにしてきた認めたくない事実や感情。
 今となっては、「わたしの話を聞いて」そういう気持ちだけが噴出して、何ひ
とつ言葉にならない。

 言葉は怖い。
 「そんなつもりで言ったのではない」ということが、お互いに容易に理解できれば
いいけれど、説明しようとすればするほどこんがらがって、さらなる誤解を生む。
 「言葉の綾」「言外に含まれる意味」「余韻」「無言劇」……言葉の魅力が時として
棘となって胸に刺さる。
 言葉は人を傷つけ、傷つきもするが、慰められるのも言葉。
 書いても書いても満たされない思い。
 「受け入れられなかったわたしの話」は結局は会話によってしか満たされないのか
もしれない。
  それでもわたしは、過剰な臆病さと、大胆さの間で右往左往しながら、言葉で自分
を表現することを、書くことをやめることはできない。
                                        2001/12

       トップページへ