白と黒と灰色と

 幼稚園の入園テストの時、園長先生が、わたしに1枚のカードを見せ、
「これは何色?」と尋ねた。
 わたしは元気よく「灰色」と答えた。
 正解は白だったのだが、テストのたびに何度となく使われたであろうそのカー
ドは手垢にくすみ、どうみてもわたしには灰色にしか見えなかった。

 12歳ころまで大気汚染で有名な町に住んでいた。
 画用紙を手にした女の子が書くお決まりの絵―三角屋根の家と、やたら目の
大きい女の子、そしてチューリップ(それらはみなみごとに同じ大きさだった!)
ただ1つだけ違ったのは、空の色、これをわたしはいつも灰色に塗った。
 わたしにとって空は青いものではなく、灰色のものだったのだ。

 1点のくもりのない理想の形、何の落ち度もない完璧な形、そういうものを
表す色を「白」とするならば、子供の頃のわたしにとって、父なるものは「白」、
父のつくる家庭も「白」、だからその構成分子であるわたしも「白」でなくては
ならなかった。
 「白」いイメージにそぐわない態度や感情(嫉妬や怒り、退屈、憂鬱)、家族間の
葛藤、いさかいは、あってはならないもの、受け入れられないものとして、意識の
外へ追いやろうとした。
 そんなものを認めたり、表に出したりしたが最後、「真っ黒」な存在に転落する
と思っていた。
 それは他人との関係もそうだ。
きのうの味方は今日の敵、少しでも関係がぎくしゃくすると「黒」としてご破算
にしたくなり、少しでも受け入れられていると感じると「白」となる。
 「白」と「黒」の間を右往左往してきた。

 そもそも「白」というのは扱いにくいものなのだ。
真っ白な洋服を着た日には、座る場所、もたれかかる位置にも始終気を配り、
まちがってもミートソーススパゲッテイなど食べられない。
 その上クリーニングに出せば別料金が徴収される。
 少しのシミでもつけようものならたちまち「白」の価値はなくなり、その日1日
気持ちがふさぐ。
 白を白のまま保つには、そうとうの気苦労と配慮が必要だ。
 
あの日園長先生が笑って認めてくれたカードの色のように、わたしが感じた空の
色のように、白と黒、そのどちらでもない「灰色」を、自分にも他人にも、他の何に
対しても許すことができたらどんなに楽だろう。
 近頃つくづくそう思う。

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