宮河先生

 彼は小学校4年生の時の担任の先生だった。
体育の先生なのにとても太っていて、愛用のジャージからは太ももやおなかが
今にもはちきれそうにはみ出していた。

 休日になると近くの県立公園や学校、時には自宅にクラスの子供たちを集め
て、いろいろな遊びにつきあってくれた。
 日曜日にわざわざお弁当をつくる母親の手間を考えてのことだったのだろう、
「明日、9時におにぎり2個持って、校庭に集合!おかずは持ってきちゃだめ
だぞ」それが前日の土曜日の先生の挨拶だった。
 虫採りにジャンボ滑り台、ハンドベースボール、ドッジボール、缶蹴り・・・体育
の授業は大嫌いだったが、休日のこの集まりだけはとても楽しみで、何日も前
から当日雨が降らないようにと祈った。
 ドッジボール……、ボールなどとれたためしはほとんどないのだが、ごくたまに
奇跡ともいうべき瞬間が訪れて、思い切って出した両手と胸との間にバフッという
音とともにしっかりボールが収まったときの快感といったらなかった。
 ドロジュン……、泥棒役と巡査役に分かれて、巡査が泥棒を捕まえるという単純
な遊びだったが、物陰に隠れて、仲間の泥棒役が次々に捕まっていくのを息をひ
そめて眺めている時に感じるスリルと優越感には、胸が躍った。
 今もその傾向は変わらないが、逃げたり隠れたり、ド突いたりといった、ちょっと
乱暴で、スリルのつきまとう遊びが、わたしは大好きだったので、鈍い運動神経
を補って余りあるほどのやる気と攻撃性をもって望んだ。
 時には小学生の彼の子供たちを連れてくることもあった。彼に似た色の黒い元
気そうな子供たちだった。
 彼の体にあった特大サイズのおにぎりを見ながらにぎやかに食べるお昼ごはん
は、この行事の楽しみのひとつだったように思う。
 夜、わたしは電気を消して眠るのが怖かったが、「明日は先生に会える」。そう
思うことで、夜の暗闇を受け入れることができた。

 ある日のことだ。
休み時間に、ささいなことで宮河先生から教室の隅っこに呼ばれて注意を受けた
わたしは、その思いがけなさと、屈辱感とで泣きそうになったが、クラスメートの前
で涙を見せたくなかったので、あさっての方向を見てごまかそうとした。
 すると彼は、椅子に腰掛けたままの姿勢で、わたしの目をまっすぐ見ながら、
「泣きたい時は(ちゃんと)泣きなさい」静かにそう諭した。
 身近な大人から感情的にではなく、きちんとした叱られ方をしたのは、あとにもさ
きにもこの時だけだったように思う。
 こらえきれずに、涙の玉がふくらんではポタポタ落ちた。

 教室の壁に模造紙を貼って、そこにクラスの全員の名前を書いた棒グラフをつくり、
全国の山脈の名前、国立国定公園の名前、海流の名前などを覚えるごとに、印を
付けていった。
 国語の教科書の一単元を、それぞれがどこまでつっかえずに音読できるかという
表をつくったこともある。
 「競争する」ことは人と比較する、優劣をつけるということで、最近はとかくその
弊害ばかりがいわれ、「じゃあ競争しなければいいんでしょ」と、安易に運動会の
かけっこをなくしたりすることがあるようだけれど、「競争心」そのものは、人間の持つ
ものであって、大事なのはその使い方、刺激の仕方。
 子供の頃はそんな理屈は思いもよらなかったけれど、体育の得意な子は体育で、
国語の得意な子は国語で、みんながそれぞれの持ち場で主役になれるように、ひとり
ひとりをよく見ていてくれた先生だったと思う。

 テレビドラマの「3年B組金八先生」を見て、ぐじゅぐじゅ泣きながら、宮河先生のこと
を思い出すのだった。
                                       2002/1

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