「そういう言い方、言葉の受け取り方をしないでください」と、ただそれだけ
言えば済むことなのに、どうしてわたしは言えないのだろう。
言っても通じないから……そう自分に言い訳して逃げている。
「これ、いらない」と言っているのであって、「あなたが嫌いです」と言っているのではないのです。
「あれ、どこやった?」というのは、文字通り、物の所在を尋ねているのであって
「あなたが隠したのね!」と責めているわけではないのです。
身の周りで起こるすべてのこと、発言を自分に結びつけ、自分が責められ、拒否されていると、そう感じてしまう人がいる。 皮肉、あてつけ、イヤミ……言外に含む意味というのが一般的に存在するのは確かだ。
文学の世界では、行間に含まれる意味も、その作品の魅力だったりもする。
でも、言葉を読み取る側に、自己評価の低さや卑屈さがある場合、それは言った相手に負担や罪悪感を感じさせるだけ。
子供は最初に母から言葉を習う。
習ってきたとおりの言葉の使い方、受け取り方を、それが一般的で普通であると信じる。
「疲れた」、「NO」、簡単なことがなかなか言えないのも、相手がその言葉で傷ついたり、負担に思ってしまうのではないかと、臆病になっているから。
ささやかな喜びを気軽に報告できないのも、聞いた相手がひがんでしまうのではないかとどこかで恐れているから。
言葉は単純明解でありたい。
そう、手話のように……。
「疲れた」という仕草は「疲れた」、それ以外の意味はない。
「怒っている」という仕草は、怒っているという自分の感情を表す、それだけであって、相手を責めているわけではない。
人との会話のやりとりで疲れきってしまうのも、実際に語られた言葉以上のものを、こちらが勝手に解釈してしまうから。
それは決して相手への思いやりではない。
子供の頃にすでに言葉の意味が曲解され、こちらの気持ちが通じないことを知ってしまったわたしは、それらをわかってもらう努力をいつしかあきらめてしまったように思う。
でも本当にあきらめきれただろうか?
否。同じようなやりとりが、あいもかわらない感情の行き違いがおこるたびに、理解されないできたという怒りの感情や、もどかしさが一気に湧き上がる。
わたしは怒りを感じている、そしてそれを表に出してしまうと見捨てられるのではないかと、私の中の子供がいまだにおびえているのである。
2002/2
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