風景の一員であること

 試験が間近に迫っているというのに、何も準備をしていなくて途方にくれている夢とともに、もうひとつ、今もよく見る夢がある。
 場所は学校の教室、わたしは高校生だ。
 音楽の授業か体育の授業、それとも文化祭の練習のためか、教室を移動する場面。
 クラスメートたちは、ひとり、またひとりと仲のいい友達同士で教室を出て行く。
 ざわざわとしたおしゃべりと、椅子のガタガタという音、それらがひとしきりやんだあと、気がつくとわたしだけが取り残されている―。

 すべてがわたしの目の前を通り過ぎ、わたしの預かり知らないところでものごとが決定され、とり行われてる、という感覚。
 わたしとその周りのわずかな空間だけが写真のフレームで四角く切り取られ、そこから外の世界を、外の動きをただ眺めている。
 決して交わることのない外の世界とわたしの空間。
 一歩、外に出ようとするとすべての責任を負わされそうで、わたしの一挙手一投足、ひとことひとことが、周りに大きな影響を与えてしまいそうで、あわててフレームの中に駆け戻る。
 時々隔てていた枠ををつきやぶって、こちらへ入り込んでこられると、反射的に、笑顔と、落ち着きというバリアを張って身構える。

 電車やバスを乗り継いで、いつもと違った場所へ出かける時に感じる違和感がある。
 満員電車の人の波に押されて、自分のからだが意思とは関係なく、右に左に揺れる時バスの進行に従って、自分のからだが目的地まで運ばれていく時……いつもは外から傍観しているだけの風景に、わたしがすっぽりはまりこんでいることが、とても不思議に思えてくる。
 そこではわたしはわたしという個性を失って、群集の中の一人に過ぎないのだということを発見し、朝のラッシュアワーの光景の一部分となりきっている自分を、少し照れくささを感じながら眺める自分がいる。
 
 いつだってわたしは他の人たちや物と同じように、それらが作り出す世界の一員として存在していたはずだった。
 周りの景色や現実と自分とを切り離さないと、とても背負いきれない重たいものを、わたしは感じていたのだろうか。
 それとも―、現在ここにこうしていることを、わたしは認めたくないと、心のどこかで思っているのだろうか。
                                               2002/2

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