アルバイト

 学生時代はアルバイトばかりやっていた。
お金を貯めて何かを買いたいとか、どこか旅行に行きたいとかそういう
目的は全くなくて、ただ「何かすること」が欲しかったのだと思う。
 あの頃は「ヒマになってはいけない」と思い込んでいたから……。
 受験勉強から解放されて、ポッカリとあいた自由な時間をどう使ったらいいのか
とまどいながら、学生課にせっせと通い、短期のアルバイトを探した。

 最初に見つけた仕事は、近所の商店街の抽選所。
 200円買い物をするごとに1枚もらえる抽選券を10枚集めると、抽選箱を回せるというあの、よくある福引きの受付け係だった。 
 年配のおばさんと2人ひと組、券の枚数を数えて「1回どうぞ」とか、「テイッシュかお菓子のどちらかを選んでください」とか言ったり、1等賞が出ると、鐘をカランカランと鳴らしたりした。
 ある日、束になった抽選券を何冊も持ってやってきて、何十回もガラガラと回していくおばさんを見て、わたしもあんなに何度も何度もグルグル回してみたいものだとうらやましく思った。
 あとでわかったことだが、あれは自分の店で分担として抽選券を買い取ったものの、商品が売れず、仕方がないので余った券を持って自分で福引を引きにやってきた、商店街のおばさんだということだった。
 一体あの箱の中には当たりの玉はどのくらい入っているのだろう……一度、玉を入れ替えるところを見学してみたいと思っていたが、出勤してきた時にはいつもその日の玉の入れ替え作業は終わってしまっていて、ついに一度もお目にかかることはできなかった。

 その次のバイトは、近所のパン屋さん。
 レジ係りとはいえ、朝の掃除から始まって、パンの配置、お盆拭き、スライサーを使ってのパンの耳切りに、ソフトクリーム巻きなど、次から次へと仕事はやってきた。
 チョコレートやクリ−ムで、パンの表面をこぎれいにトッピングしたパンを、ビニールに手早くきれいに入れるのは、ことのほか難しかった。
 お昼時になると、近所の主婦たちがパンを乗せたお盆を手にずらりとレジに並ぶ。
「なにモタモタしてんのよ!」という、冷たい視線とさりげない苛立ちのしぐさ.。
 あせればあせるほどオタオタしてしまい、せっかくのアンパンマンの顔のトッピングが、周りのビニールにくっつきまくり、泣いたあとのような情けない顔になったアンパンマンを客に手渡すことになるのだった。
 それでも、「お取替えします」という一言がなぜか出てこず、憮然とした表情で店を出て行くお客さんに小さい声でありがとうございました、と言うのがやっとだった。
 仕事が終わってからパンの値段を覚えに通ったり、ショウウインドウを拭き掃除しながらケーキの位置と種類を覚えたりしたかいがあって、夏休みの終わりにはかなり余裕をもってこなせるようにはなった。

 付属病院の受付事務というのもあった。
その日に来た患者さんのカルテを棚から取り出すと言う単純作業だったが、これも件数がものすごく多く、おまけに棚の高さに合わせて腰を伸ばしたり、かかんだりするものだから、一日の終わりには、運動後のような疲労感がドッと残った。
 ただでさえ忙しい中で、「カルテに○○と書いてあるものは、順番を先にする」など、暗黙の細かい規則があって、ピリピリした雰囲気が流れていた。(今思うに、わたしのとろさが周りのピリピリを助長していたのかもしれないが。)
 よほどストレスが溜まるのだろう、奥の控え室に駆け込んできては、タバコを吸いながら同僚や患者さんへの文句を言いたい放題言いまくって、また飛び出していく看護婦さんもいて、そういう職業の人を余りにも美化して見てしまうわたしは、少なからずショックを受けたりした。

 変わったところでは、アンケート調査のバイト。
 何のアンケートかは忘れてしまったが、地図と住所を頼りに個人の家を訪問し、用紙を渡し、翌日また回収するというものだった。
 なにやら頼りなげなおねえさんがやってきたわ、というふうに見られたのか、たいていの家では好意的にアンケートに協力してもらうことができたと思う。
 一軒だけ、ひどく警戒心の強いおばあさんがいて、わたしの説明を最後まで聞こうともせず、半分開いたドアを閉めようとするので、わたしもそうはさせじとグイグイドアを引っ張って、両者譲らずという状況になったことがあった。
 結局アンケート用紙を受け取ってもらえたのかどうか覚えていないが、ノルマとはいえ、やる気になれば結構大胆になれる自分を発見した。

 一番長い間続けたのは、家庭教師だった。
 相手は高校1年生の女の子。物静かな子で、わたしの方も人見知り、そして年下が苦手ときているので、雑談を交えながら和気あいあいという風にはいかず、たんたんと時間が流れた。
 数学については教科書ガイド(虎の巻)頼み、英語は私立高校ゆえ、使っている教科書がオリジナルで、教科書ガイドが市販されておらず、「どうか難しい質問をされませんように……」と、平静を装いつつも内心ヒヤヒヤしていた。
 学年の終わりには、「おかげさまで英語の成績がひとつあがりました」とその子のお母さんは言ってくれたが、どう考えてもわたしのおかげとは思い難く、「ものを教える」と言う仕事にわたしは向いていないということが十分わかったので、1年間で辞めた。

 ほかには、できたばかりの英会話教室の受付、駅前に突っ立てのビラ配り、子供科学館のおねえさん、など見つけ次第やっていたが、一番気楽で、楽しかったのは、区役所でのバイトだった。
 パンチカードの束から、ある一定の条件のカードを抜き出すというような、「単純」「黙々」「機械的」と3拍子そろった仕事は、わたしに向いているように思えた。
 アルバイトということで、言われたことをただ着実にこなしていけばよかったし、1番年下ということもあって、お昼休みにはランチに連れて行ってもらったりと、皆一様に親切だった。
 いわゆる組織というものの中に身をおいたのは初めてということもあって、すべてが新鮮に写った。
 「今日はかったるいから午後は休み!」と言い切って、「休み」と書いた手製の三角札を机の上にポンと置いてさっさと帰っていく人、勤務時間中は所内をふらりふらりと散歩して人にちょっかいばかりだしているのに、「僕は5時以降、職場の人の顔は見たくないんだ」と言って(その気持ち、今はとてもよくわかる。)、5時の鐘とともにそそくさと帰って行く人……。(後年、係長に昇進した彼を別の区役所で目撃してびっくりした。)
 民間の会社は、滅私奉公、ある程度その会社のカラーに染まらないと生き残っていけないのかも知れないが、悪いことさえしなければ、その存在が許される役所では、プライベートを大事にし、自分の個性を存分に出し切っている人が多いように思う。
 4時45分には机の上はきれいに片付けられ、5時の鐘が鳴っている最中にはもうすでに、下りのエレベーターは、帰り支度をした職員で満員御礼状態だった。
 
 最後にしたアルバイトは、子供がヨチヨチ歩きの頃。
花の種を袋に入れたり、球根にテープを巻いたりする内職。
 3個やって1円という、単価は高くはなかったが、プラスチックケースにどっさりと入れられた球根を見ると、なぜか闘志(?)をかきたてられた。
 赤ちゃんと1対1で向き合う毎日に閉塞感のようなものを感じ、何か夢中になれるもの、成果が目に見えるもの、手を動かしている間だけでも、いろんなことから気持ちをそらしていられるもの、そういうものを求めていたように思う。
 始めたらやめられない止まらないといった感じで、しばらくの間のめり込んでいた。

 心の中の臆病な部分、自分を守るためにバリアを張りすぎて、なかなか他人に馴染めないという部分はそのまんま変わらないけれど、表面的にはものおじしないように落ち着いて見える自分は、こんなふうに仕事や面接の場数を踏んでつくられたのではないかと思うことがある。
 わたしに向いた仕事は何だろう―。そうはいっても将棋のコマのように人事の手によって、あっちこっちと気まぐれに配置されるがままで、自分では選びようもないのであるが、やはりそう考えずにはいられないのである。
                                      2002/3

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