父の入院

 3月―。
 この時期になると思い出す。
 その日は、夕方から、4月に異動するひとたちのための送別会が行われることになっていた。場所は葉山牛でちょっと有名なレストラン。こういう時じゃないと口にはいらないからと、何日も前から楽しみにしていた。
 2時頃だっただろうか。職場に母から電話が架かってきた。
「今、共済病院にいるの。父さんが緊急手術を受けることになったから、すぐ来て」
「え?」
 すでに定年退職して家に居るようになった父は、わたしが朝家を出る時にはまだ寝ていたが、少なくとも昨日まではいつもと変わりがなかったはずだ。
 「わかった」言葉少なにそう言って受話器を置いたものの、ことの重大さがわからず、ただ、ほんの一瞬ではあったが、「どうしてよりによって今日なんだろう……」と、お皿に乗った大きな葉山牛のステーキが脳裏をよぎった。
 自宅に着くと、友達の家に遊びに出かけていた息子を呼び出し、タクシーで○○共済病院へ向かった。車の中でようやく、どうやら大変なことになっているらしいことに気づき始めた。
 その頃、子供への態度をめぐって、父とわたしはほとんど口を利かない状態が続いていた。
 病院に着くと、受付の人に教わったとおりの長い長い廊下をスタスタと小走りに通って、救急A病棟へ向かった。
 ベッドの上の父は、意識ははっきりとしていたが、お腹の痛みに脂汗をタラタラ流しながら横たわっていた。
 「お腹をあけてみないとわからないらしいけど、だいぶ悪いみたいなの」母がほとんど泣きそうな顔で言った。
 前の手術が長引いているらしい。手術予定の3時をとうに過ぎても、時々医師が父の脈をとりにくるだけで、なかなか手術室へ移される様子がなかった。
 救急車が到着するたびに周りが慌しい雰囲気に包まれる。腰に付けた携帯電話でテキパキと連絡を取り合うスタッフ、荷物を抱えたまま右往左往する付き添いの家族たち……、目の前で起こっていることが、現実離れして見えた。
 「あのーすごく苦しそうなんですけど、まだあかないんですか?」と、ムダとは思ったが近くにいた看護婦さんをつかまえて聞いてみたら、
「お気持ちはわかるんですが、前の手術を途中で終わらせるわけにはいきませんので……。」と、気の毒そうな返事がかえってきた。
確かにそのとおりだわ、と妙に感心しながら、それでも忘れられているわけではなかったんだと、少し気が済んだ。
 5時ごろようやく手術が始まった。
 不安感をまぎらわすためのジョーク、明るい話題、緊張感を和らげるための空想癖―。
 待合室での長い時間が流れた。
 途中で若い医師が、病状を説明するために出てきて(のちに彼が父の主治医になるのだが)、
「腸に1cmぐらいの穴があいていたので、お腹の中がう○○だらけでしたよ!う○○だらけ!」とおかしそうに言ってワハハと笑いながらまた手術室へ戻っていった。
 緊張感が和んだのは確かだが、ものすごく痛い思いをした上、手術の途中でう○○だらけと報告され、後々妻子にまで、お笑い種にされる病気には選べるものならわたしは絶対なりたくないと思った。
 手術が8時ごろ終わり、人工呼吸器をつけた父がストレッチャーにのせられて出てきた。
 テレビのドラマで、よく、手術室から出てきた患者をのせたストレッチャーがものすごいスピードで、廊下を疾走する場面がある。両脇には看護婦さんと、家族。彼らも当然走っている。
 それが病気の緊急性、重大性をビンビンかもし出し、ドラマの深刻な場面を盛り上げている。
 やはり父を載せたストレッチャーも3人のスタッフに付き添われて、スピード全開。
ICUに向かうらしかった。
 体力の弱っている術後の患者を、一刻も早く空気のきれいなICUへ運ぶために急いでいるのだろうか、よくわからないが、少なくとも家族は、ICUといっても、それがどこにあるかわからず、薄暗く、ひとけのない夜の病院の廊下に置き去りにされたら心細い。
 だから置いていかれないように必死にくっついて走っているのだ。
単にそういうことだったのかと、やはりドラマに出てくる家族のように、ストレッチャーにくっついて走りながらそう思った。
 ICUは思ったよりリラックスした雰囲気が流れていた。
 便に付いていた細菌が臓器に悪さをして、多臓器不全をおこすかもしれません、万全を尽くしますが覚悟はしておいてくださいと、言われていた。
 呼吸器を付けて眠る父を見て、もうダメなんだ、とあきらめようとした。自分の中で早々にあきらめをつけることで、いざと言う時のショックを和らげようとする傾向がわたしにはある。
 たとえばプロ野球。
 わたしは巨人ファンだが、3点差でむかえた9回ウラ、2死満塁、一発逆転という場面。観客はその一発を信じてわれんばかりの大声援・・・、試合としても一番の見所のはずだ。
 しかしわたしは、そういう場面はとても苦手だ。奇跡の一発がおきることが信じられない。期待して裏切られる失望を味わいたくないので、早々に見限る。「もうダメだ。負けた」と。
 何かあったら連絡します、という医師の言葉を受けて、3人でタクシーで自宅へ戻った。
 深夜12時近く。何日も経ったかのような長い1日だった。
 降り際に運転手さんが「お疲れさま」とひとこと声をかけてくれた。
 わたしたちの心情を察してくれているような気がした。
 
 不安と心細さの中で、わたしと母、息子の間に不思議な連帯感が生まれた。
 悲しかったのは確かだが、ドラマの中にいるような、いきいきとした昂揚感を感じていた。自分の内面をクヨクヨと考える必要もなく、職場や病院へ行くといった、日常をこなすだけで、充実感があった。
 それまでは、2,3日あとのことをしっかり予定計画をたてて、コントロールしながら生活していたが、「今日1日、なるようにしかならない」と言う感じで、過ごした。
 5月の半ばに退院するまでの2ヶ月間、母は毎日病院に通った。「こう言う時こそ、妻の役目!」と、傍目にはとても張り切っているように見えた。
 その一方では、 わたしは完全に母の夫代わりになっていた。保護者といってもいい。
 それまでわたしを否定してかかっていた母がわたしの言うなりだった。
 父の病状を細々と報告しながら、わたしの顔色を伺い、ご機嫌をとり、相談ごとをもちかけてきた。
 それまで父を保護者として過ごしてきた母がいきなりその存在を失いかけ、その不安と混乱から、わたしにすがり、しがみつこうとしていた。
 わたしの方も、頼りがいのある娘を演じつつ、一方では「それごらんなさい。わたしがいないとなんにもできないじゃないの」と小気味よさを感じていた。

 あれから2年。
 2度の手術を経て、父は快復した。
 親は子供より先に死ぬものだと話には聞いていたが、現実に起こりうるものだとは、思ってもいなかった。
当たり前のようにずっと変わらず、このまま続いていくように思える淡々とした日常に、ある日突然予告もなく、楔がうちこまれることがあるのだ。
 そして微妙な力関係の変化……。
 あの日父に万一のことがあったら、わたしと母の関係は今ごろどうなっていただろう、
今以上に距離を測りかねて、悶々としているのではないだろうかと思うのである。
                                          2002/3
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