本居さん

彼は、わたしがこの春異動した職場で、席を並べることになった班長さんだ。この職場にきて今年で3年目、50歳は越えていると思うが、独身のせいか、どこか気弱な少年の雰囲気を漂わせている。
 あの千と千尋に出てきた「顔なし」のような表情で、(顔なしに表情があるのかどうかはともかく)、いつも青い顔をして休暇どころか昼休みもとらず、独り言をつぶやきながら淡々と仕事をこなしている。

 3年のサイクルで異動するわたしたちの職場では、ただひとり3年目の彼はとても貴重な存在なのだ。
 医事業務を委託している会社の事務員さんからは、「本居センセイ」と頼られ、窓口で診察の予約変更をめぐっていざこざが起きると仲裁役に引っ張り出され、アルバイト採用の面接には借り出され、新人のわたしが仕事をとちると、課長に「どうしてちゃんと教えないんだ〜!」と、代わりに怒られたりしている。
 8時半が始業時刻なのだが、彼は8時には事務室に来ている。
 どうやら連日職場に泊り込んで、時間内にできなかった自分の仕事をこなしているようなのだ。
 そういう彼でも時にはお腹が空くらしく、売店で昼食を買ってきて机の上に置いておくのだが、食べかけると電話が鳴り、人がなんだかんだとやってきて、その対応が終わると日直の当番でレジにはいる時間になり、現金を数えて銀行に渡したりしているうちに夜の6時、7時。
 熱気を帯びた部屋の中で生ぬるくなったヨーグルトと、カサカサになったサンドイッチを、「もうダメだろうなあ」と寂しそうにつぶやきながら、ゴミ箱に捨てている。
 こういう状況は彼だけに限ったことではなく、課長は(この課長、どこかで見たことあるなあと、一ヶ月間考え続けたが、なんのことはない、駅前のカメラ屋の主人と似ていただけだった。)、壁に寄りかかって立ったまま、アンパンとジュースを流し込むようにして昼食をとるというありさまなのだ。
 内外からの問い合わせの電話がひっきりなしで、「至急調べてください!」という電話を受けて受話器を置いたとたん、「すぐにこれを持ってきて!」という別の指示があり、急いで行ってもどってきてみると、「忙しいところ済みませんけど!」と、ちっともすまなそうな顔をしていない看護師が目をつりあげて、これまた急ぎの仕事を手に待ち構えている。
 で、至急調べることは何だったかしら、と思い出そうとしているうちに「まだですか!」という催促の電話がはいるのだ。
 本当に必要な仕事かどうか考える余裕も元気もないようで、仰天するような余計な仕事も、
「一応」「念のため」「前からそうなっているから」「ドクターの癖だから」と、皆、あきらめ顔で抱え込んでいる。

 どういう状況も彼のように淡々と受け入れてしまえば当たり前になるんだろうか、そうすれば3年後のあかつきにはよくぞがんばったと自信がつくんだろうか、という気持ちと、単に消耗するだけなんじゃないの!と、自分の中の楽をしたい願望に正当な理由を探す気持ちと
の間で葛藤をおこしながら、それでも、やってくる仕事はとりあえずやらなくてはならない。
「すいませ〜ん、本居さん、これどうするんでしたっけ」と、前にも同じ質問をしたかもしれないと思いつつも、すでに頭は飽和状態でもはや回想不可能。困ったような顔をしながらも丁寧に教えてくれる彼についつい頼ってしまい、
そうして彼の顔は益々青ざめていくのである。

                                              2002/4

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