わたしが鍋料理を嫌うわけ

 わたしには、自分と自分以外をはっきり分けたがる傾向がある。
 自分の仕事と他人の仕事、仕事の時間とプライベートの時間、自分のスペース、空間、身体……周りと自分の境界を侵されると自分がなくなってしまうような不安を感じることがある。
 
 友達とランチを食べに出かけたレストラン。
 わたしがAランチ、彼女がBランチ。
「ね、ね、ちょっと味見させてくれる?」と彼女。断るのも角が立つので、「いいよ」と気軽に答えるのだが、実は内心抵抗がある。
 もちろんたくさん食べたいわけではない。むしろ、「お返し」として、彼女は、わたしの皿から持っていった以上の量を、自分の皿からとり分けてくれたりするのだ。(余談だが、ダイエット中の人は、相手を太らせたいと思っているので、こんな時かなりドッサリと分けてくれる。)
 ただ、お友達だからいいよね!という雰囲気のもとに、他人のフォークが何のためらいもなく、自分の皿につっこまれることに、大げさだが、境界を侵されたような腑に落ちなさを感じてしまうのだ。
 1人前のお皿の上には、「適切な」量と見栄えで料理が盛り付けられているものだと、わたしは思い込んでいるので、そのバランスが総崩れするのもなんとなく不愉快なのである。

 そういうわたしにとって、鍋料理はなかなか受け入れ難い。
 わたしの家の食卓には、父の好みということもあって、鍋料理がしばしば登場した。
 この料理には、自分の取り分というものがはっきり決まっていない。
 おおよそ手前の部分が自分の取り分ということになっているのだが、線がひいているわけでも、竹輪やはんぺんに自分の名前がついているわけでもないので、「ちょっと!そこ、おはしで引っ掻き回さないでよ!」と主張する資格もない。そんなことを言ったら、欲張りと思われるか、「オレの箸が汚いのか!!」と言われるのがおちなのだ。
 たくさん食べたいわけではなく(しつこいようだが)、少ないなら少ないなりに、誰にもはいってこられない自分の領域がはっきりと決まっていないと、心の中までお箸でかき回されるような感じがするのである。
 「なにをやっても(この場合は自分の箸で鍋中を掻き回すということ)、家族なんだから許されるだろう」という
その押し付けがましさ、強引さは、鍋料理だけの問題ではないような気がして、家族に土足で踏み込まれたくない自分の領域というものを守ろうとするあまり、たかが鍋料理にさえ、過敏に反応してしまうのかもしれないが。  
   
 鍋料理は、排他的な我が家を象徴するかのように、その輪の中にいる者には閉塞感をもたらし、輪の外にいるものに対しては、疎外感を味あわせる。
 この料理は、楽しそうに食べる料理であると、相場が決まっているので、 ひとつの鍋を囲む者としての資格を与えられた者(多くの場合、家長を中心とした血縁だったりするのだが)は、和気あいあいとした、仲がいい家族を演じながら食べなくてはならない。
 ごくまれに客人が来ると、「家庭的な」雰囲気を味わってもらおうと、鍋料理が登場する。
 が、我が家はこんなにオープンな感じの、楽しげな家族であることを、客人にわざわざ見せつけているようで、そういう雰囲気であればあるほど、ごくたまにしかやってこない者は、自分がよそ者であることをたっぷりと自覚させられることになる。 
 鍋の中には、何が入っていなくてはならないとか、何が入っていてはいけないとか決まっているわけではないので、都合の悪いことも、ウソも偽りも、欺瞞も、ごまかしも、どんなものがはいっていても、一応、「鍋」という形、つまりは家族という形は整ってしまう。
 箸でつまんだものが、例えうさんくさいものであったとしても、見てみぬふりをしながら、とりあえずは食べなくてはならない。
 こだわっていることも、忘れられないことも、わだかまりもすべて、まあ、いいじゃないかと、無理やり、鍋の底に沈められ、忘れさせようとする気配を感じるたびに、ごまかされまいと、抵抗を試みようとしているわたしを感じるのである。
 
 最近では、鍋料理をするとわたしが殺気立つので、気配を感じた母は、一人用鍋(旅館の食事で、小さいコンロとともに出てきて、固形燃料で野菜クズと薄っぺらい肉をしょぼしょぼ燃やしながら食べるあれ。)を父のために用意したり、わたしが不在の時に、息子と父母の3人で鍋を囲んでいるようで、夜遅く帰った食卓の上に、名残のプレートが、ポツンと置かれているのを見ると、どういうわけか疎外感を感じてしまう。
 鍋を嫌う娘と、「やっぱり鍋が1番。」と、あくまでも鍋に固執する父との間に、、表立ちはしないけれど静かな葛藤が
横たわっているのだ。
 
 そして職場の忘年会で登場する鍋料理。
これは、「わたし鍋に具を足す人、オレ食べる人……」と、役割が暗黙のうちに決まっている。
 食べる人(大抵男)は、その場をとりしきったような顔で何の疑いもなくその役割に甘んじ、一方では、具を足す人及びよそって差し上げる人(これは女性陣)は、「お注ぎしましょう。」「お取りしましょう。」と、ビール瓶と菜箸を交互に持ち替えて、競って気配りの人を演じる。
 ボ〜ッとしていて、タイミングのつかみ方が悪いわたしは、気が付くといつのまにか「食べる人」になっていて、それが妙に居心地が悪いのだ。
 「まったくもう気がきかないんだから!」という非難の言葉がどこからともなく聞こえてきそうで、家族から切り離されたところで食べる鍋料理もまた、それはそれで、馴染めないのである。

 わたしの家は、もうすぐ築30年になろうかという木造住宅である。
耐震上の不都合なところや、水まわり、内装などのほころびが最近目立ってきた。
 そこで両親は、わたしと息子がずっとこの家に住み続けることを前提に、業者を呼び、パンフレットをめくりながら、ああでもないこうでもないとリフォームの計画をたてている。
 しかし、いくら上っ面だけを塗り替え張替えして隠そうとしても、1度くずれかけたものは、もはやごまかすことなどできやしないのだ。
 そう意地の悪いことを考えつつも、 一方では、父のとりしきる鍋の周りからこのまま離れられないのではないかと、
重い気持ちになってもいるのである。
                                                 2002/11


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