今朝の朝刊に、「縮む家族」というテーマで記事が載っていた。
79歳の寝たきりの夫と、彼を介護する82歳の妻。彼らに子供はいない。
静かな2人きりのお正月を迎えるはずだったが、ふたりして自宅で亡くなっているのを、訪れた友人に発見された。
大晦日から元旦にかけて、妻が先に心不全で亡くなり、そのショックで夫もあとを追ったのではないだろうかと書かれていた。
この記事の副題は、増え続ける孤独死―。
子供の数が減り、誰にも看取られることなくひっそりと死んでいく高齢者が増えている、これはなんとかしなくてはいけないという主旨である。
もともと老いは、そして死は、孤独なものだと思う。 たとえ息子や娘が近くに住み、気遣ってくれたとしても、友達やパートナーに囲まれていたとしても、である。
それでも、あえて「孤独死」という負のイメージの言葉が生まれたのは、まだ見たこともない死後という未知の世界に不本意ながら旅立つのに、誰にも見送られないのは心細い、せめて、別れを惜しんで欲しい、という生きている者の願望からかもしれない。
一方、病院のベッドの上で命を管理され、 最期の時になって初めて、ほとんど見舞いにこなかった家族や、親戚がぞろぞろやってきてベッドを取り囲み、医師に脈をとられご臨終ですと告げられれば、それは孤独死とはいわない。
家族に見守られ静かに息をひきとったと、とりあえずはその場にに居合わせることができたということで、周りにいるものも、それまでの不義理に申し訳がたつというものだ。
結局は、あとに遺された者が、死に目に立ち会うことで、後味の悪さを感じずにすんだ、自分を納得させることができたということであって、実際に、本人が満足のいく死を迎えることができたかどうかというのは、死んだものに聞いてみなくてはわからない。
生前、くだんの夫婦がどんな会話をし、どんな心境で暮らしていたのかは想像することはできない。
でも、現役時代に、バイオリニスト、ピアニストとして華々しい世界に身をおいた彼らが、「他人様の世話になりたくないから」と、選んだ生き方、その行き着く果てにあった死を、一概に「孤独死」「変死」として、あってはならないもの、同情するべきものとして扱うのはどんなものだろう。
彼らの家の前には、1年以上たった今でも、花が供えられているそうだ。
死者に花を手向けるのはたやすいが、生きているうちに玄関のブザーを押すことは、とても勇気がいる。
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