戦線離脱

 5月23日、内線電話で、総務局長から呼び出された。
「あ〜、ついにきた」半分の期待と、半分の不安で鼓動が激しくなった。
 知事選の行われる年の定期人事異動はどういうわけか、6月1日であり、23日は、異動対象者に対する異動先の告知の日だったのだ。
  3月の末に体調を崩し、検査期間中、療養休暇をとった時わたしは上司に言われていた。
「昨年秋の意向調査の時から、あなたの異動については、こちらも検討しています。ですから今後、長く休まれると受入先がなくなるので、もう少しの間がんばって出勤してほしい」と。
 つまり、早い話、異動したかったら休むな!ということである。異動できる可能性はおよそ8割(だったそうだ)。8割というとかなり高い確率のようだが、残り2割の起こりうる可能性だって捨てたもんじゃない。
 彼らの言う8割とはどのくらい信憑性のあるものなのか、検討しているという言葉ってもしかして何もしてないことの言い訳に使う言葉じゃなかったかしら?……などと、半信半疑のまま、それからおよそ二カ月を過ごした。
 しかし半信半疑とはいえ、やはりこの間ずっと、心の中で8割の可能性に期待し、すがってもいた。
 5月末までにこれとこれをやり終えておかなくては、と処理できるものは処理し、処分できるものは処分し

、立つ鳥後を濁さずではないけれど、心身ともにすでに「立つ鳥状態」、いつでも飛び去れるように、羽の毛づくろいに専念した。
 全く能天気な話だが、職場の食堂のメニューも、ここにいるうちにひととおり味わっておこうと、日替わりでちがうものを注文したりした。
 4月で期限の切れた電車の定期は継続せずに、パスネットにした。

 自分の仕事はこなしつつ、でも、わたしはこの職場には合わないんです、これ以上は無理です、異動させてくださいという無言のメッセージを1年間送り続けた。
 他人の期待にそうようにがんばるのもしんどいかもしれないが、わざわざそわないようにがんばるのも無理がある。人は誰でも他人の期待にこたえ、喜んでもらうことにやりがいを感じたりするものだし、他人に認められたいと心の中では思っているものだから。
「そこに居るように、居ないように過ごす」……わたしの中には、矛盾し相反する感情と態度がいつも同居していた。自分を守るためにいつも周囲と自分とを隔絶させ、そういう態度が周りとの不協和音を奏でた。いつも自分が周囲から切り取られてフワフワ漂っているような感覚が始終つきまとっていた。一度カラにとじこもってしまうと、カラ付きのまま、そこから出てこなくなる性分を自分でもてあましてもいた。
 極端な環境の職場で、わたしの性格の極端な部分が思いっきり放出されたともいえる。

この1年で覚えたのは、仕事というよりも、きまりや規則、しきたりだった。また、覚えきれなかった(というより受け入れようとしなかった)のも、きまりや規則、しきたりだった。女のるつぼ、権威、そのすべてがわずらわしく、反発を感じ、気持ちの上では仕事どころではなかったような気がする。
 一方では、期待にそえない自分と、課長や隣席の同僚の思いやりに直面するたびに消え入ってしまいたいような気さえした。

まあ、3年間の任期を全うできなかったことは事実だ。やれやれ釈放だと思いつつも、かなり複雑な思いである。自分の希望どおりになったじゃないの、という思いと、そうならざるをえなかったことに対する残念な気持ち―。見栄っ張りなわたしは、「彼女、1年2ヶ月で異動しちゃったのよ、結局つとまらなかったのよね、ホーホッホッホ!」という同僚の嘲笑、目も気にしている。
 今は何を言っても言い訳にしかならないし、とやかく言う資格はもうわたしにはない。ごちゃごちゃ理屈をつけるまでもなく、「わたしにはできなかった」―そういうことなのだ。
賢明なやり方ではなかったにしろ、こうなるしかしかたなかったんだよね、と自分に言い聞かせようとは思っている。

新しく配属になるところはやはり医療関係ではあるのだが、事務所なので、病院よりは普通に時間が流れていそうな雰囲気がする。
 今度は3年間、ちゃんと居場所にできるといいなあ。仕事はもちろん、新しい環境や人に慣れるのに時間がかかるので、不安と言えば不安である。

 ホントだったら、新しい職場では今度こそがんばるぞ!なんてことを書くのがスジなのだろうが、自分の性格や職場の体質なんていうものは、どこへ行っても、そうそう変わるものではない。あんまり調子のいいことを書くと、墓穴を掘りそうなので、新たな出来事と出会いを予感しつつ、6月1日(この日は日曜日なので、正確には2日)の辞令交付に望もうと思う。

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