最近は職場の問題や、そこでのわたしのあれこれについて気をとられることが多く、自分に向き合って考えてみる余裕もなかったような気がする。
いつもわたしの中には、実際に語られたことを鵜呑みにしてはいけない、うわべや外見にだまされてはいけない、形にこだわってはいけない、格好をつけるようだけど、本質をみるようにしなくてはいけないという思いがあった。と同時に、本当に信じることができるものをとても強く求める気持ちも。
ともするとこういった考え方や思いが、やたらにわたしを理屈っぽくしたり、批判的にしたり、意地悪にしたりした。
意地の悪い見方というのが例えばこうだ。
両親は最近業者を呼んで、せっせと家のリフォームに励んでいる。耐震上の理由だというが果たしてそれだけだろうか?手のかからなくなった孫と、とりあえず経済的に自立した娘。いまさら手放すわけにはいかない、大事な老後の世話人なんだから・・・。なるべく綺麗に家を整えて、彼女たちにはずっとここにいてもらわなくてならない。わたしたちの安心ために・・・。支配しながらしがみつきたいという意図が見え隠れしているようにわたしは感じてしまう。
テレビ番組で、介護をテーマにしたドキュメンタリーを見ていた母。
「あんまり長生きするもんじゃないねえ、子供に迷惑をかけるばかりだから」としんみり語っていたかと思うと、翌日には、みのもんたがこれを食べると長生きすると言ってたという食品を買いに走り、夜な夜な夫婦で貪り食っていたりする。
母は、父の実家を初めて訪れた時、なんて温かな家族たちだと思って感激したという。
確かにあの一族は親切だ。頼みもしないのにひとの問題にあれこれと顔をつっこみ指示をあたえ、従わないと威嚇する。 善を施し、自分たちの価値観をおしつけ、感謝されることで自分たちの力を感じようとする。これみよがしの好意やおせっかいを、温かいと勘違いしてしまうのは、母が、子供のころ、忙しい家業の家で、あまりかまってもらえず、ちやほやされたい願望をもって育ったことも関係していると思うのだ。
わたしのこういう考え方の基本はやっぱり家族に対する思いだ。みせかけばっかり、形ばっかりよい家族のふりをして、中身は欺瞞や偽善、支配に満ちていた。
かなり極端にはしった考え方のような気もする。人によっては恩知らずとも思えるかもしれない。
いまひとつわたしの感じ方に確信がもてなくなる時がある。
随分前に、何がきっかけだったか、姑が「あなたのお父さんはちっともエラくないのよ、全くエラそうにしてるけど!」と、忌々しげに言ったことがある。実の親のことをそう言われて喜ぶ人はいないし、親の悪口をその娘に向かって吐きだすことがいいか悪いかは別として、今思えばあのときの彼女の発言は、本質をついていたなあ、敵ながらあっぱれ、と思うのである。相手に対して、自分と同じように感じている人がいる、わたしの考え方は気のせいじゃない・・・よくぞ言ってくれたと思えたものだ。
家族に対するイメージが今まであまりにも「白」(=善)に偏りすぎていたので、「黒」を流しこまないと等身大の正しい姿がうかびあがってこない気もする。
問題なのは、そうした考え方そのもではなく、それに付随して沸きあがってくる怒りの感情を解消できていないことである。
家のリフォーム?あら、そりゃ古いままの家より、綺麗になったほうがありがたいじゃないの。
親戚?みんな今は遠くに住んでいるんだし、無関心な親戚や親よりよっぽどいいじゃないの、親はいつまでも娘がちいちゃい子供だと思いたいものなんだよね、しょうがないわ。
せいぜい長生きしてくださいね、身体にいいものたくさん食べてさ。
・・・という具合に淡々と思えないのである。
ちょっと似たようなあるいは、関連のある場面に遭遇すると、怒りの感情だけが、何の脈略もなく湧きあがってきて、現実に目の前にいる関係のない人との関係に影響する。
去年友達を通じて知り合った男友達からの電話。ご機嫌いかが?連休何して過ごすの?それだけなのに、わたしには、拘束されているような気がする。何かを期待されていて、それにこたえなくてはいけない気がする。表面的には、特に予定ないわね〜と、ごく普通に、あるいはそれ以上に明るく受け答えしているのだが、心の奥の奥の方では「そっとしておいてよ」ともうひとりのわたしが毒づいている。それは本当は彼に対して言っているのではなく、もうひとりのわたし、それも子供のわたしが親に言っているのである。「カンケーないでしょう?ほっといてよ、わたしがどうしようと!あれこれ言うのはわたしが心配なんじゃなくて信用していないだけでしょう?支配したいだけでしょう?」と。
表面上は差し障りなく応対をしてごまかせる時はいいけれど、先日はどうしても、携帯に出る気がしなかった。呼び出し音が鳴っている間も、相手の名前を表示するので、誰からの電話かわかっていた。で、結局あとからメールで返事をし、実は、電話はかばんの中にあってしかもマナーモードになっていたから全然気がつかなかったの、ゴメンネ、などと、必死に言い訳している。相手はどう思っただろうか?誰だって、自分がかけた電話に対してメールでしか返事がこなかったら、自分と話したくないのかなあ、って思うよね、そりゃ。とあとあとまでくよくよし、こんなことなら、最初っからさっさと電話にでりゃよかったなどと思うのである。
形は違っても、こんな風に自分の奥底の、いつもは意識さえしないような部分が、いきなり表に現れて、そして自分を、相手をとまどわせ、それが何かを説明することもできないまま、お互いにぎくしゃくとした感情だけが残るというパターン。どういうわけか、最初からそうなることを予感していて、実際そのとおりになると、なぜかがっかりするというよりホッとした感じさえするのだ。
相手、自分自身そして周りの状況を、矛盾に満ちた滑稽な人々という感じで、怒りの感情なしに客観的に眺められるようになれたらと思う。
そういう形で(許さずとも)受け入れていかないと、ことあるごとにわきあがってくる怒りの感情をもてあましそれに振り回されてしまうばかりで、ちっとも楽にならない。
いつもいつも懐疑的でいちいち反発していては、好意に甘んじるとか、身をゆだねてみるとか、助言にしたがってみるとか、そういうことから遠ざかってしまい、孤立した、淋しい感情に覆われてしまう。
楽になるということは、つまり、成り行きにまかせてみる、人に任せてみる、そのときの自分の気分に任せてみる、とかそういうことだと思うからだ。
他人をコントルールしたい人ばかりではない。
ほんとにだいじなアドバイスや助言だって山ほどある。おしつけがましくない好意も、これみよがしでない善意もたくさんある。
大切なのは静かな関心、さりげない好意だと気がついたはずなのに、どこかでそれらを「ものたりない」と思っている自分がいる。
それが証拠に、わたしが浸りがちの空想。最近はまっているのが、通っている診療所の、老朽化した階段が崩れて、ちょうどそこを歩いていたわたしが階段ごと落下するというもの。鉄製の階段とコンクリートの踊り場の崩れる大音響。額から血を流して横たわるわたし。もちろん意識はない。「きゃー、TOMATOさん!」かけよるドクター。救急車をはやく!タオルを誰か!騒ぎを聞いて看護師さんも飛び出してくる。そっとこっちに運んで、出血が激しいわ、止血を!ドクターのてきぱきとした指示と、迅速に応急処置をするナースたち、群がるやじうま・・・。
こんなふうにどんな形であれ、わたしの心の中には、たとえいっときでも、誰彼の関心を一挙に独占したい、つまりお祭り騒ぎのような関心を得たいという気持ちがあるのだ。
この手の空想にわたしは何十年浸ってきただろう。ある時はドラマGメン75に登場する女刑事や人質に自分をだぶらせ、ある時は学校の先生や主治医を保護者にみたてて・・・。
まさにそれは、大騒ぎな関心とお祭り騒ぎのような世話焼き。わたしが嫌うもののはずなのに、である。
人は誰でも他人に喜んでもらって自分の存在を感じることがあっていいと思う。それがささやかな喜びであってもいいと思う。
でも自分の価値をあげるそのために人を利用してはいけない。そう思うあまり人に接する時、わたしの行いはこれみよがしなんじゃないか、さしでがましいおせっかいなんじゃないかと、ついひいてしまう。それがささやかな喜びを自分から奪ってしまい、かえって「見て。見て。わたし、ここにいるのよ!」とどんどん自分の存在を誇示したい気持ちばかりがふくらんでしまう。で、そうした自分のおしつけがましい気持ちを感じるから、余計ひいてしまうという悪循環に陥っている。
好意も怒りも、ほどほどに、そこそこにあんまり貯めない方がいいようである。
感情野るつばなんてもっともらしい題名をつけてしまったけれど、なんだかとても愚痴っぽい内容である。実のところ、読み返すのさえ恥ずかしくて、推敲さえほとんどしていない。
こんなとき、実在の人物を傷つけることなく、そして言いたいことを見苦しくなく、辛らつに、登場人物に託して書くことのできる小説に、憧れる。理想は、自分も含めて、矛盾と葛藤に満ちた滑稽な人々や状況を、愛すべきものとしてあっさりと書き綴ることができるようになることである。……道のりは甚だ遠い。
2003/5