以前職場で、「人権に配慮した言葉づかいを考える」という啓発用小冊子が回覧されたことがある。
その中に、「盲判を押す」というのがあった。これは言うまでもなく、「めくら」という差別用語が使われていて、聞く人によっては不愉快になることもあるので、できれば使わない方が望ましいということらしい。
でもこの表現が使えないのだとしたら、中身をよく吟味しないで承認の判を押すことは、一体何と表現したらいいのだろう。
他にもたとえば、盲滅法という言葉は?
つんぼ桟敷というのは?―
遠まわしな言い方を工夫しようとするとかえって、彼らに対して、何か異質で特別扱いしなくてはならない人たち、したがって、やっかいであまり関わりたくない人たちという偏見を抱いてしまう。
心の中に、彼らを一段見下す気持があるので、そのやましさから、せめて言葉づかいだけでも気を使って、自分の優越意識をカモフラージュしたいのかもしれない。
でも心の中の「毒気」を、あたかもないかのように封じこめたところで、かえってその毒は、表現の場所を失ってたまりにたまっていくような気がする。
テレビ番組で、夏場になると、身体の障害を克服して何かをやり遂げた人の涙ぐましい物語が、美談としてドラマ化される。きっと彼は、部外者のわたしなぞには到底想像もつかない大変な努力をしたのだとは思う。
でも、その陰には、(身内なら特に)さんざん彼にやつあたりされて傷ついた人たちもいるはずである。
屈折した感情をぶつけられて不愉快な思いをしたかもしれない、周りの人たちの愚痴は表に出ない。
本人はもっとつらかったのだからと、大目に見ようとする。関係のない番組スタッフや司会者や視聴者は、さらに、そういう人々を、暖かい目で見守る人になりたがろうとする―。
朝のラッシュ時のホームで、点字ブロックの上を、ここはおれの通り道だからとどけとばかりに、白い杖をぶんぶん振り回して突き進む男性がいる。
彼に足を踏まれたり、杖で向う脛を突っつかれても、文句を言う人はいない。せいぜい舌打ちをして避けるだけである。点字ブロックの上をのこのこ歩いていた自分がいけなかったのかしらとさえ思ってしまう。
職場に眼の不自由な女性がいる。
彼女は、「すいませ〜ん」と、お客さんが窓口に来ているのに、知らんぷりを決め込み、あとで、「あたし、目が悪いから気がつかないんですう」と周りの誰彼に言い訳をする。すると周りの心優しき誰彼もまた、「そうだよね〜大変だよね〜」と、親身に同意する。
間違っても、「お宅、耳まで悪いわけ?」とは言わない。
そんなことで目くじらをたてたり責めたりしたら、障害者に対して理解のない、了見の狭い人というレッテルをはられてしまうからだ。
先日、北野武監督の映画、「座頭市」を観に行った。
彼の作品を観るのは、「Dolls]に続いて2作品目である。
この映画、始まって5分ぐらいの間に、すでに人がバッサバッサと斬られ、おしまいまでこのペースで、血しぶきが飛び散る。
座頭市自身はというと、「めくら」とののしられ、生活と復讐のために女装を続けている「おかま」も登場する。
武士になりたくて日夜雄たけびをあげて走りまわる、いわゆる「ばか」と呼ばれる男が居る。
町の片隅には、「乞食」がぶつぶつつぶやきながら、物乞いをしている。
彼らは妙にいたわられるのでもなく、隠されるのでもなく、保護されるのでもなく、ただ普通に、そこに居るものとして描かれている。
時にはその「個性」さえもユーモアで笑いとばしてしまうほどにとても自然にそこに居るのである。
「命は大切に」「障害者はいたわるように」「人を差別してはいけません」・・・そういうきれいごとの持つ、欺瞞性に、監督の皮肉な目が生き生きと向けられているような気がする。
どんなにうわべだけとりつくろい、言葉の毒だけ取り除いて表現してみたところで、「めくら」は「めくら」だし、「乞食」は「乞食」であり、「おかま」は「おかま」なのである。
こんなふうに思うのも、このわたし、「目が悪いからっていい気になるんじゃないわよ!」と、世間から総好かんを食いそうな言葉がわなわなと湧き上がってくることがままあって、そこで今回、映画にかこつけて、その衝動に支持を得たいだけなのかもしれないけれど。
2003/9
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