お葬式

 「本日はお日柄もよくご愁傷様」というビデオを見た。以前上映された橋爪功主演の映画である。
 仲人を頼まれた結婚式の行われるその日に、主人公の父親が急死する。しかし律儀な彼は、事情を話して結婚式の方を断ることはできない。結局、それぞれの儀式にまつわるドラマが、ひとりの人間と彼をとりまく人たちの間ですすんでいく。慶と弔という極端に状況の違う展開が同時に進行する。
 そこに長女の出産までが重なり、喪服姿で駆けつけた産院で、「おめでとうございます」の電話をかけたりして、どこまでもちぐはくなやりとりが交わされる。

 小学生にあがるかあがらないかの夏休み、岡山にある母の実家に遊びに行くと、祖母夫婦と同居していた曾祖母が、亡くなっていた。
 葬儀社などなく、近所の衆が、手弁当で葬儀の手伝いに繰り出してくる土地柄である。当然ドライアイスもなく、遺体は傷まないように、風通しのいい座敷に寝かされた。息をしなくなったもののかもし出す特別な雰囲気がまわりをとりまいていた。トンボの羽をむしったりするのが好きだった3つ年上の従兄が、「死骸だ、死骸だ」と騒いで、叔母に叱られていた。
 人がたくさん集まって、妙に改まったようなうきうきとした気分だったが、その興奮は彼も同じだったのだろう。
 土葬がならわしだったので、おみこしの形をした座棺が庭に据えられた。村の若い衆が、家の裏手にある墓地まで棺を運んで埋めた。

 夜中に病院に搬送されてそれきりだった弟は、ひとばんを母の腕の中で過ごしたあと、朝になると、横倒しにされた地蔵のように、ころりとベッドの上に寝かされていた。白いおくるみから突き出た2本の白い足は、どこまでもひんやりとしていた。
「どうしても入れてあげたいんです」
「燃えないものはダメですよ」
どうしても入れてあげたいものが何であったのか―。 母と葬儀屋との間の、静かで切実なやりとりの末、フエルトで作られたぬいぐるみたちが、柩の中の小さなからだのまわりを埋めた。
 釘を打ち付ける音。もう絶対にこちらの世界にもどってくることのできない、取り返しのつかない隔たり……。

 最後のお別れをということで、のぞきこんだ柩の中の祖母の顔は、死の直前までつけられていたチューブを無理やり抜き取られた形そのままに、口元が歪んでいた。
 それでも、「安らかな顔でほっとしたわ」と、息をしていないかどうか確かめるように、手のひらを祖母の鼻のあたりにかざしていた母はそう言った。生前、家族とも他人とも隔たり、聖書を口ずさんだり、読書と手芸だけを慰みに生きていた祖母にしてみれば、亡くなってから、こんなふうに入れ替わり立ち代りジロジロのぞきこまれて、さぞ不本意なことだったろうと思う。もしわたしだったら、見世物じゃないんだからね、さっさと閉めてよ!と叫びたくなっただろう。

  最近のお葬式は、セレモニーホールで執り行われることが多い。儀式にふさわしいといった感じの、しかつめらしい司会と万事手落ちのない進行。その場の雰囲気が、まじめくさって神妙であればあるほど、喪服を着た晴れがましさも手伝って、なんとなくむずむずとしてくる。
 手順に粗相があってはと、隣で焼香している人をさりげなく盗み見し真似をしながら、一歩遅れた感じで焼香をすませる。亡くなった方の写真が焼香台に据えられているところもあるが、見知らぬ故人の冥福を祈る心境になる余裕がない。
 終わればやれやれと、遠慮がちを装いつつもぬかりなく、引換券を差し出し、お塩付きの香典返しをいただいて、その足でカラオケボックスに寄ったりするのだ。

  結婚式は演出の違いはあれ、みな一様に幸福そうでおめでたいので、あとあとまで記憶に残ることがほとんどない。そのときの引き出物が何だったか、出されたお料理がどんなだったかということも 。
 葬儀に伴う前後のできごとは、ほんとうに些細なことも、ある日、何の脈絡もなく思い出されることがある。同じようなことは他の日にだってあったはずなのに、その日に起きたからこそ意味があるかのように……。
 買ってもらったものの細かいデザインや、交わされたセリフの調子までが、淡々としたイメージとなってはっきりと思い起こされる。たしかにそこには涙もあったはずなのに、悲しみの感情を飛び越えて、滑稽な雰囲気さえ帯びていることもある。
 人間がそこに居る以上、滑稽なことやちぐはぐなことは、いつだって起きているのだろう。 特別なにおいの漂う日だからこそ、なんてことのないありふれたできごとが際立つのかもしれない。

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