祖母のこと

 わたしの父方の祖母の名は、「鳩子」。
9月9日に「クークー」と鳴きながら生まれたのでこの名がついたのと、本人は話していた。
 当時は珍しいことではなかったらしいが、1度も顔を見たこともない、耳鼻科医の祖父と結婚して、神戸に住んだ。
 耳鼻科医の妻なのに、彼女は耳が悪かった。買い物に寄った商店の主から、
「○○耳鼻科で診てもらうといいよ。」と自分の夫の診療所を紹介されて帰ってきたという。
 彼女はまた、親戚中の情報収集役兼伝達係でもあった。「××君が、高校に入学した」とか「誰々さんが死にそうだ」とかいう知らせが、彼女を通して一夜のうちに伝わってきた。
 夏休みになると、わたしは両親に連れられて、ほぼ毎年、この「神戸のおばあちゃんち」に帰省した。
 戦災で焼け残った古い家の立ち並ぶ下町の一角、診療所を兼ねた2階家・・。
 ブザーを押すと、「まあ、まあ、よく遠いところを」と、言いながら、彼女は出てきた。  わたしはいつも、母から「きちんと挨拶するのよ」としつこく言われていたので、「こんばんわ」と、タイミングよく、きちんと言い終えると、一仕事終えた気分になって、ほっとした。
 2階の居間に通されて、祖母はプラッシー(オレンジジュース)を出してくれたが、「おばあちゃんの前でわたしに恥をかかせないでよね」という母の暗黙のメッセージを感じとってわたしは、緊張して座っていた。
 大人たちのご無沙汰の挨拶の間、しびれをきらして足を崩すと、「足!」と母が小さな声で、しかしピシャリと言って、足をつついた。
 わたしは、1年に一度しか会わないいとこたちと、なかなか馴染めず、下の待合室でひとり少年ジャンプや、サザエさんを読みふけっていた。
 しんとして、誰もいない空間、部屋全体に染み付いた特有の消毒液のにおい・・表のとびらには、お盆休みのカレンダーとともに、「休診」の札が下がっているのが見えた。
 この時期には、5人いる息子や娘が、それぞれの配偶者や子供たちを連れて一斉に帰省するので、祖母はみんなの世話に大忙しだった。
 頭に白いものが混ざり始めた叔父や叔母も、昔は怖かったと言う祖母の前では、頭のあがらない子供だった。
 「おかーちゃん、オレのネクタイは?」叔父が聞くと、腰巻のヒモとまちがえて、腰にネクタイを巻いた祖母が現れたこともあった。(叔父は、ヨレヨレのネクタイをして、出かけて行った。)
 歯ブラシは、ひと家族ごとにまとめて茶封筒の中に入れられ、ひとりずつ、箸も決めてあった。先っぽにこけしのような丸い飾りのついた、赤い子供用の箸がわたしのだった。
 22歳の秋、就職が決まって、何年かぶりにひとりで祖母の家に遊びに行くと、「順一」と父の名が書かれた、くたびれた茶封筒の中に、3本の歯ブラシが、大切にしまってあった。
 せっかちで、心配性・・・殊に時間に関しては、周囲が辟易するほどで、遠くから来たわたしたち一家が帰る日は朝から大騒ぎだった。
 「早く出ないと新幹線が行ってしまうよ!」祖母は5分ごとに時計を見て、わたしたちをせきたてた。
 結局閑散とした新神戸駅のプラットホームで、わたしたちは1時間近くも、時間を持て余すことになるのだった。                   次ページへ