童話に思う
民話『かさじぞう』は好きな話のひとつである。
雪降る大晦日。正月を越すための資金づくりに、町に笠を売りに出かけたおじいさん。ひとつも売れなかったので、帰りに地蔵たちの頭にかぶせてやる。ひとつ足りなかったので、公平を期するために最後の一体には、自分のてぬぐいを巻いて帰ってくる。その夜、地蔵たちがお礼に、えんやらやえんやらやと、おじいさんおばあさんの家まで、米俵や餅、野菜などを運んで持ってきてくれるというお馴染みの話。
実際に、石の固まりがぞろぞろとやってきたらかなり怖いが、かつて子供の頃に読んで、心に残ったという感覚はそうそうたやすく消えるものではない。
単に、貧しいおじいさんおばあさんが幸せになれてよかったね、めでたしという感覚でもなく、良いことをすれば必ず報われるというような道徳的なことを思ったわけでもない。
恩返しにひとり(この場合は一体)でやってくるのではなく、ぞろぞろと集団でやってきたというのが、良いのである。少し理屈っぽくなるけれど、この、ふたりきりで孤立した感じの老夫婦を見守ってくれる人(もの)はたくさんいるんだよ、というようなメッセージ性に惹かれたのではないかと、今なら思う。何かに守られている安心感といったところか。
ところで、このお地蔵さんたち、基本的には日がな1日ずっと立ちっぱなし。一体どこからこれらの物品を調達してきたのだろうか。民話などによく登場しがちの、強欲な地主の家に集団で押し入って、かっさらって、いえ、分けていただいたのだろうか。
善良なおじいさんおばあさんは、果たして、来年の大晦日にも、同じことを期待して笠をかぶせてやるだろうか?(癖になりそう)
「かさじぞうの舞台裏」「かさじぞう、その後」などを作ってみたらおもしろそうである。
―などと、素直でなくなった昔の子供はそう思うのだが、始めに受けたあたたかい印象は今も残っている。
もうひとつは、『おやゆびひめ』。
この話の影響で、わたしはツバメの実寸大の大きさにずっと違和感を持ち続けている。
絵本の見開き一杯の大きさに書かれたつばめと、その背中に乗った女の子の絵。おやゆびひめというくらいだから、女の子はとても小さいのだ。しかし子供というのは、書かれているお姫様なり女の子なりを自分と一体化して感じてしまうものなのか。ツバメは、自分と同じ大きさの女の子を乗せて飛べるくらいの大きな鳥―鷲や鷹のようなものなのだと、そのとき思い込んでしまったようだ。時々出かけた動物園にもいないし、住んでいた地域にも、雀やカラス、鳩はいたが、本物のツバメは見たことがなかったというせいもあるかもしれない。
初めて本当のツバメを見た時は、子供のツバメだと思った。あれがそのうちおとなのツバメになれば、わたしの中でできあがったイメージにまで大きく成長するのだとずっと思っていたのだ。
現在住む家の最寄り駅に、ツバメが毎年巣を作っている。知識として知ってしまった今、さすがにもう、あれが子ツバメだとは思わない。しかし心に住み着いてしまったツバメはやっぱり女の子を乗せて飛ぶ大きな姿をしているのである。
2004/11