なわばり  

 縄張り、及び縄張り意識というものは、いうまでもなく、なにも野生動物だけの問題ではない。人間の女性にも大いに存在する。
 この場合、はっきりと、言葉で「ここはわたしの領域ですよ」と宣言されることは、まず、ない。有形無形、さまざまな表現方法をとって、主張されるものであることを、あやめは学んだ。

昨春の異動に伴って、あやめの隣りあわせになった同僚ポン子は、大きな音と態度でそれを示した。ホッチキスは投げるように置く、スタンプ台のフタは仇のようにバチャンと閉める。書類の束は、おしおきのようにダンダンと机に打ち付けてそろえる。パソコンのキーを叩く音にいたっては圧巻で、一体どのくらいの力で叩けばあのような大きな音が出るのか、家に帰って試してみたら、実に指がめりこみそうなほどであった。
 自分の存在を誇示できる機会は決して見逃さない。知識を披露し、あるいは天敵をへこます絶好のチャンスとあればタイミングよくつかつかと歩み寄って、ここの事務所でのしきたりやら大義名分、専門用語などを甲高い声でわめきちらし、また席に戻っていく。
 ポン子の仕事は職員に賃金や給与を支給することである。胸当てがついたヒラヒラのエプロンをいつも身にまとい、手が空くと給湯室に現れる。そして茶をいれたりシンクを磨いたり、冷蔵庫の中身を整理したりして、「ああ、いつも悪いね〜ポン子さん」とねぎらいの言葉をかけられるのを無上の喜びとしている。財布を握り、台所を支配する、いわば母のような存在として、誰も彼女に頭があがらないのである。
 ポン子から発せられるこれらの音や態度は、あやめに、母のり子さんを髣髴とさせる。なぜもう少し静かに歩けないのかというほど、ドスドスドスと足音をさせながら我が物顔で廊下をのし歩くときの地響き、健康に良いからという理由で毎夜行われるしこ踏み、ボリューム一杯にして聞く童謡、時々大きな声で口ずさむ歌にいたっては、もはや原曲がなんであるのかわからないほどである。自らの教育的見解を疑いもせず、批判したり怒鳴ったりしていた若かりし頃ののり子さんにまつわる、何ともいやあな記憶が湧き上がってくるのである。

あやめの家は築30年になろうかという木造住宅である。
 読書依存気味のあやめの部屋は、本棚に入りきらないほどの本が床にまではみ出して積み重なり置かれていた。読むだけでは飽きたらず、本を棚に並べて眺めるのが好きとあって、蔵書は増える一方。家のリフォームを兼ねて耐震工事を済ませたばかりとはいえ、あまり2階の部屋に負荷をかけるのは好ましくない。大震災でもこようものなら、階下を根城とするのり子さん夫婦がペチャンコになる恐れがでてきたため、本棚を新たにひとつ買い、1階の居間、いわゆる団欒の場、おもてなしの場に置くことになった。
 のり子さん夫婦は本をほとんど読まないので、新しい本棚に収まったのは、大方あやめの本である。その中に、『みんなの精神科』(きたやまおさむ 著)、『精神科に行こう!』(大原広軌 著)、『うつのセルフ・コントロール』(大原健士郎 著)の3冊が並んでいる。悩めるあやめが、カウンセリングを受けることになった時に購入した本である。
 先日、帰宅したあやめが、なにげなく本棚に目をやると、これらの本のタイトルが見えないように裏向きになっている。不審に思ったあやめがもとに戻し、次の日見ると、また裏を向いている。どうやらのり子さんの仕業らしい。
 うつは誰でもかかる可能性のある心の風邪である、というキャッチフレーズが行き渡り、芸能人の中にも自らの病をカミングアウトするものも出てきたとはいえ、精神科というのは、やはりまだまだ敷居が高く、偏見の残る場所であることは確かである。この忌むべき科に娘が通っていることなど、のり子さんにとっては目を背けたい事実なのである。自らの子育てを否定されたような心持がするのであろう。
 その点に関していえば、もうひとつのり子さんが認めたくない事実がある。それは、あやめが子供を連れて出戻っていることである。「そんなことすると(嫁ぎ先から)戻されるよ」と言う祖母の言葉を聞いて育ったのり子さんにとって、離婚は罪悪、一家の恥なのである。だから、なけなしの友人たちにも、もちろんこのことは内緒である。友人から自分宛てにかかってきた電話にあやめが出ようものなら、表面上平静を装いつつも、「あ、今ね、娘がうちに遊びに来てるの。そうなのよ〜、だんなさんが出張とかで。元気だったあ?」と1オクターブ声のトーンをあげ、愛想のいい笑顔をはりつけながらとりつくろおうとしている。
 のりこさんの縄張りであり、よりどころであるこの家は、夫凡二さん曰く、「ハイソサエティーで、申し分のない理想的な棲家」なのであり、そのためには、出戻ったり精神科に通ったりする娘など、実情はともかく、体面的には存在していてはいけないのである。
 本にしろ、電話にしろ、そうされればされるほど、自分が受け入れられていないという寂しさを感じるあやめは、生来の底意地の悪さも手伝って、むきになって本をもとに戻す。のり子さんがまた裏に向ける―。しばらくこの無言の応酬が続いた挙句、のり子さんがそれらの本の隣にあてつけがましく置いたのが、『全国特養老人施設リスト』である。その意味するところはこうである。「わたしのせいなのね?わたしの存在があなたを病気にしたのね。いいわよ、それなら老人ホームにでもはいってあなたの前から姿を消してやるから」。もともとちょっとした文句に対して過剰反応をし、まるで全人格を否定されたように大騒ぎする癖のあるのり子さんらしい反応である。 しかしいくらこんな本を並べようとも、施設への入居の申し込みをした形跡は無論見られない。
 ここ数日、こうしたやりとりがさらにエスカレートしてきたようである。あやめの置く、これみよがしの本リストに、『家庭という歪んだ宇宙』が加わり、それに対戦するのり子さんの本として登場したのが、『わたしの茶の間』(沢村貞子著)。従来の裏向き作戦ではなく、スライド式になっている本棚の裏側にあやめさん御用達の本は隠され、それに代わって堂々表側に飾られていたのがこの本である。
『わたしの茶の間』―。なんというメッセージ性のある本であろうか。「茶の間(居間)はわたしの縄張りなんですからね!汚さないでちょうだい」……。臭いものにフタをしながら、何十年も依存してきた家庭というものの価値を、「歪んだ宇宙」などといってまるごと叩き潰されるのは、のり子さんにとって、つらいことだったのであろう。

先のリフォームに伴って念願のIHクッキングヒーターを買ってもらったのり子さん。この装置を使った料理講習会にも参加し、毎日せっせと天板を磨いている。たまにあやめが使用したあとに、拭き残しの油はねや、一点の曇りや染みでも残そうものなら大変である。いまいましそうなため息吐息とともに、これみよがしな拭き掃除が始まる。その勢いたるや、ガラス製の天板にひびがはいりそうな勢い。ただどんなに力をこめたところで、結果は大して変わらない。のり子さん唯一のよりどころである台所に鎮座するこのヒーター、要は自分で磨かないと気が済まないだけなのである。
 かくして、本の置き方、調理器具の磨き方ひとつで、のり子さんと娘あやめとの間では、縄張りを巡り、悪意を含んだ応酬が無言のうちにやりとりされているのである。

さて、一方、あやめはポン子に代わって職場をとりしきろうなどとは毛頭思っていない。むしろ、座席は屋上の隅かあるいは、すぐ帰れるように玄関先にでも置いてもらい、居るか居ないかわからない存在でありたいと思っているくらいである。
 職場を縄張りとするためには、それなりの大変な手間がかかる。上司に媚びるのはもちろんのこと、給湯室をはじめ、事務所の隅々にまで目と耳と神経を行き渡らせ、「あれ?これはどうするんだろう」の疑問の声があがれば、どんなに忙しくとも、サポートデスクのごとく駆けつけなくてはいけないのだ。元来横着者のあやめにそんな面倒なことはとてもできやしない。
 ただ、相手が支配力を強め、かしずかないものをあからさまに非難しようとする気配を感じると、つい張り合いたくなったり、その縄張り意識というものをかき乱したくなったりするのだ。
 ポン子が周りの要求に振り回されてドタバタすればするほど、あやめは我れ関せず、悠然と落ち着き払った態度をとろうとし、迅速さを競って必要以上に仕事の手をはやめ、5時の鐘とともに、弾丸のごとく事務所を飛び出したりする。目の不自由ささえも大げさにアピールしようとするのを逆手にとって、健常な視力でも読み取るのが疲れるほどの、まるで米粒を半分に割ったような小さな文字で書いたメモを、これまた忙しいのにわざわざ手間ヒマかけて書きつけて渡し、ポン子の新たな怒りをかきたてようとしてしまう。
 はたから見れば滑稽きわまりないのであるが、どういうわけかこれがあやめの支えとなってやめられないのである。
 のり子さんと凡二さんにたっぷりと依存することで、彼らの存在価値をあげることを期待されて育ったあやめ。何かを手がけるにあたって、果たして自分ひとりでうまくできるであろうかといちいち不安感につきまとわれる癖も、彼らの策略によるものであったのではないかと気づいた昨今、とりあえず、手近な同僚を相手に、自分に植え付けられた無力感や無価値感といったものを取り戻そうとやっきになっているのかもしれない。

先にも述べたように耐震上いかがなものかと思うが、最近あやめは自分の部屋に、カウチソファを購入した。1階の居間には合成皮革ではあるが、比較的きちんとしたなりのソファが2つある。ひとつは、穴あきクッションが置かれ、専らのり子さんの昼寝専用になっている。もうひとつは、あやめの中3になる息子並太郎の通学カバン、塾用カバンそして脱ぎ捨てられた靴下などに占拠され、座るスペースなどない。
 部屋にはほかに、凡二さんお気に入りのひとりがけリビングチェア回転式が1台、テレビのまん前に陣取っている。要するに、あやめのゆっくりとくつろげるスペースはここにはないのだ。
 たかが座る場所ということなかれ。自分の領域、誰もはいってこられないスペースというものを、心身ともに持っていることは甚だ心強いものであり、持たないということは何とも心もとない。そのことに心底気づいたあやめの、ささやかな主張なのである。

    
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