喪失について

公団アパートのコンクリートの冷たい階段。その上にすわりこんで泣きじゃくり続けていた5歳児のわたしにとって、目と鼻の先にある市場に買い物に出かけただけの母は、永遠に帰ってこない人のように思えた。
 時間には限りがある。今あるものも、今いる人もいつかはきっといなくなる。ずっと変わらないものなどない―

わたしの最初の喪失は、弟の病死だった。7年ぶりにやっと生まれた男の子ということで、両親は彼をとてもかわいがっていたが、彼の死後、その存在は家族の間で語られることはなかった。葬儀の朝、父はポツリと言った。「このことは誰にも言うなよ」。
 後に残ったのはめったにその扉を開けられることのない小さな仏壇とオルゴールの残骸だった。彼ははじめからいなかったもののように思えた。
 わたしにとって喪失は、直接向き合ったり認めたり嘆いたりしてはいけないもので、早く代わりの何かで埋めなくてはいけないものだった。
 あいたままの4人目の家族の席は、17年後にわたしが男の子を産んだ時、何ごともなかったかのように埋まった。
 1月2日に行われる鎌倉への初詣に始まり、わたしの家は、外からの思いがけないできごとなどはいりこむ余地は全くなく、同じような時間が何十年も続いている。その間、息子は成長し高校生になり、親は年をとった。父は退職をし、夕方家に帰ってくるのは、父ではなくわたしになったという変化はあったが、家の中のこの閉塞感の漂う秩序、生活パターンはずっと変わらない。

わたしは自分で作ったきまりを乱されるのを恐れている。3ヶ月先でも充分間に合うようなことをあらかじめ今からやっておこうとする。直前にする、ということが苦手なのである。不測の事態が起きて、結局やり損なってしまうのが不安なのである。何日までにこの仕事をここまで仕上げ、何時になったらこれをしてと規則を作り、自分を縛り、外から文句や介入の付け入る隙を与えないようにバリアを張っている。仕事のような事務的なことはそれで円滑に進むかもしれないが、同時に、ふとしたきっかけで得られることや、ひょんなことからといったきっかけで得られる出会いをすべてシャットアウトしてきてしまったような気がするのだ。周りを、準備や計画、コントロールすることでカチカチに固めようとするのは、自分の力の及ばないところで、人が居なくなったり、自分への関心や好意が失われたり、大事なものが壊れたりなくなったりするのが怖いのである。
 昨年春、パソコンが壊れかけた時は仕事どころではなくなった。その日は一睡もできず翌日は仕事を休み、丸々3日間、受話器を握り締めサポートデスクの人とやりとりしながら過ごした。パソコンの故障は、ただの機械の故障ではなく、その向こう側にいる人々を一遍に失うことだったのだ。

 わたしのひとことで、機嫌を損ねてプイと去っていく母の後ろ姿。わたしの何がいけなかったのだろう……。あとには、わけのわからない罪悪感と打ち捨てられたような感覚が後味悪くじんわりと残った。
「わたしはあなたがいなくてもやっていける」。母の背中にいつか伝えたかったのはたぶんこの言葉だ。彼女のなわばりである台所の価値を大したものではないと貶め、いつか彼女を失っても哀しがったり困ったりしなくても済むように、心の準備をしておこうとする。母に限らず人に愛着すると、好意と関心を引こうと言葉を貢ぎ、かと思えば相手の価値をいっきにさげるストーリーをせっせと作りあげ、いつかくる別れと、それに伴って味わうであろう悲しみに折り合いをつけておこうと準備をしてしまうのだ。
 しかしどんなに念をいれて準備しておいても言葉を貢いでも、自分の気持ちや他人の気持ちをコントロールすることなどできやしない。いざとなったらそんな準備も無駄なのだ。
 言葉は大事だが、本心を偽ったり、ごまかしたり、とりつくろったり、言い訳したりするのもまた言葉だった。言葉をつくそうとすればするほど、率直から遠ざかるような気がした。

おあつらえむきにすべてが都合よく差し出されるものではない。周りは思い通りにいかないことや思いがけないことに満ち溢れていて、みんながそれぞれにたくさん失ったり得たりしながら、それでもなんとかやっているのだと思えればいいのだ。それなのにまだ往生際悪く、自分の力が及ばなかったせいではないか、もっといいやり方があったのではないかと後悔する。
 こうなるよりしかたがなかったと、割り切ることができればさぞかし楽だろう。
 良くいえば底力があるということになるかもしれないが、悪く言えば、「無理を通せば道理がひっこむ」とばかりにしゃかりきにやろうとするのは、まだ自分の力でなんとかなると思い過ぎているせいなのか、それとも、「なんとかなるさ」と、流れに任せるのが不安なのか。

行動はなかなか変えることができない。そもそも変える気がないのかあるのか。
 明日の昼12時の鐘が鳴ったら、やっぱりわたしは職場を飛び出し、誰にもはいってこられないわたしのお昼休み、という境界線をきっちりと守ろうとするだろう。そして、夕方5時15分の鐘とともに職場をでて、37分発の電車に乗り、わたしが帰ったら食事が始まる、という秩序目指してとっとと家に帰っていくだろう。

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