閉所にむけて
  
   

 3月31日をもって、事務所がめでたく閉所した。
 あけて4月1日にはまだ、同僚たちの慌しい声が耳の奥に残っているようだった。
 2月、3月は本当に長い月であった。WBCの決勝をテレビで見ている時に、「あ〜まだ3回裏か」とじりじりしながらため息をついたものだが、ちょうどそんな感じである。
 ほぼ一週間置きに行われる綿密な打ち合わせ。進行管理表の作成。課長から、
 「やり残しがないよう、主任、副主任お互いに厳しくチェックしあうように」とのお触れが出たときには、わたしの仕事の副主任である、隣の席の同僚の厳しい眼差しが刺さるようで、背筋が凍ったものである。
 「あとがない」ということは、人を追い詰め、逼迫した気持ちにさせるもののようである。普段だったら、細かいところにこだわってなかなか下りてこない決裁が、飛ぶような早さで下りてきた。とかく処理が遅いとヒンシュクをかうこの業界であるが、年がら年中、「来週いっぱいで閉所だ」と思いながら仕事をすれば、このようにさっさと仕事が進むのかもしれない。
 唯一、異動につきものの楽しみといえば、机の中あるいは上のものを「捨てる」という作業である。今回の場合は、事務所自体が閉所になるので、「後任のためにとっておく」という必要が全くない。
 もうこれ、使わないだろうなあ、というものを見つけたら、バリバリと勢いよく引き裂き、細かくちぎり、そしてゴミ箱へ。次の異動先で使いそうだなあ、というものについては、さっさとお持ち帰り。
 他の同僚たちも皆状況は同じなので、シュレッダーの前にはいつも誰かが紙の束を山ほど抱えて座り込み、粉砕作業にいそしんでいた。身の回りのものが着々と減っていくさまを味わうのは、砂時計の砂の減り具合を観察するのと同じ、来るべき異動の日までの時間をカウントダウンするようで、ストレス解消にはもってこいなのであった。
 3月も半ばになると、机や椅子、キャビネット、ロッカー、洗濯機、冷蔵庫、長いす……消耗品以外のありとあらゆる物に、まるで「差し押さえ」のように、引き取り先が書かれたシールが貼り付けられていった。
そしてやがて引越し業者や職員の手で、それらの搬出作業が何日にもわたって進められていった。走り回る人々、慌しい声、ドタンバタンと、あっちこっちにぶつけられながら運び出される荷物―。
 「お互いに厳しくチェックしあおう」と言われたものの、フタを開けてみれば、幸いなことに皆自分の仕事をこなすのに精一杯だった。良く言えば干渉せず、悪く言えば孤立していたということになるだろうか。
 傍らでドンドコ太鼓を鳴らされ、あたかも外側から煽られているかのようだったが、これで終わりだ、という解放感と、短い時間でどれだけやれるか自分で自分に挑戦、といったような昂揚感で一杯だったように思う。終わってみればあっけない幕切れだった。まだひと月もたっていないのに、遠い昔のようである。31日の閉所式のあと、挨拶回りを終え、帰宅した時も、ホッとしたというよりも、なんだかがっくりとした気分であった。
 ああもしゃかりきになってわたしが「戦ってきたもの」は、一体何だったのだろう。

 現在の職場のパソコンからは、「廃止所属」の一覧と、当時の座席表を閲覧することができる。ここ数年、閉鎖されたり、統合されたりする事務所が増えている。そこに加わったのが、かつてわたしの居た職場。頭でわかっていても、なんとも不思議な思いである。
 座席表には、ひとりひとりの名前が記入されている。良い意味でも悪い意味でも、彼らの顔が思い浮かぶ。あの狭いフロアに70人もの職員がひしめきあっていたのだ。
 先日、当時の同僚S氏から電話が架かってきた。物品担当者として、4月になってからも事後処理のために、くだんの事務所に足を運んだそうである。
 特別な状況におかれると、人の性格というものはよく表れる。今回の閉所に伴うあれこれで、1番大変な思いをしたのは彼である。ひとがいいものだから、本来なら上司がするべき仕事を押しけられるわ、雑用を頼まれるわ、席に着いたと思えば客がくる、客が帰ったと思えば彼宛ての電話がなったりと、気持ちの休まる時はなかっただろう。それでも、困惑したような顔を浮かべつつも、決してピリピリとせず、最後まで穏やかだった。
 「事務所はどうなふうになってましたか」わたしが受話器越しに聞くと、彼は
 「もう机も椅子も、なあんにも無くなっていて、あるのは床だけ。あとは電話の配線とか、ホコリとかゴミぐらいかなあ」聞き覚えのある静かな口調がかえってきた。

 何か手に負えないことが待ち受けているのではないか、落とし穴が掘ってあるのではないかと、ザワザワとした不安感を抱いたこともあった。果たしてわたしに4月は訪れるのだろうかと思っていたが、気づけば今は4月、こうしてちゃんとやってきた。
 「その時になれば、なんとかなる」そういう実感を置き土産としてもらった一連のできごとであった。 
                                             
                                                2006/4
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