新しい職場で
  

  事務所の朝は、運転手のノダさんの威勢のいい、「おはようございまあっす」の声で始まる。彼はいつも機嫌がいい。さっきまで裏の畑で芋掘っていました、といったような風情の漂う人で、聞いてみれば、自宅で家庭菜園をしたりペンキを塗ったりするのが趣味だそうで、その印象もあながち外れているわけではなさそうである。
 郵便局も、銀行も、車に乗らなければ辿りつけないような場所にあるので、同僚のひとりが、銀行に行く場合には、他の人たちの用事もまとめて済ましてくる、あるいは同じ方向に用事がある人はその車に便乗させてもらう、というふうに、お互いが融通しあいながら働いている。
 「わたしの仕事はわたしのもの、あなたの仕事はあなたのもの」といったように、はっきりと線がひかれていた、前の職場とは180度違う雰囲気である。
 頼んだり頼まれたりといった雰囲気に慣れていないわたしは、「してもらった」のだからすぐさま「お返し」をしなくてはいけないのでないかと、少し落ち着かない気分になる。相手の負担になったのでは?などと気を回しすぎるのかもしれない。そして、次回わたしが彼らの役にたつ機会がやってくると、ホッとした気持ちになる。頼まれたからといって、それほど負担に思ったりしないのに、お互い様なのだから、となかなか開き直れないのである。

 日中は、専門職の方たちが、訪問に出かけたり、調査に出かけたりするので、ただでさえ人口密度の小さいフロアは、し―んと静まり返り、「みんな、生きているのだろうか」といった具合になる。そのため、ちょっとした会話やふるまいが、上席の方たちにまで筒抜け状態で、思わぬところから反応が返ってきたりして、驚かされる。
 同じ課に50歳台半ばの、風変わりなな男性がいる。いつもフラフラと所内を歩き回ったり、講釈をたれたりするのでちょっと有名である。自分の席に立ち上がって、課員の仕事の様子を腕組みしながらじ〜っと眺めるのが好きらしく、ふと視線を感じて顔をあげると、彼がこっちを見ていたりする。目の行き届いたこの職場では、彼のそんな様子も上司に筒抜けなので、しょっちゅう、「ったく、あいつはしょうがねえなあ」とか「何しでかすかわからない」などと、言われている。そして周囲の人々も、その発言につられ笑いがおき、「和んだ」雰囲気になるのだが、仲間内で文句の言い合いをするならまだしも、上に立つ者が大っぴらにそんなことを言うのはいかがなものだろうか。
 上司と同じやり方で、周りの人たちも、その人を扱うものだ。上司が軽んじたりからかったりすれば、他の人も、彼を一段低くみる傾向になる。決してピリピリとした雰囲気でもなく、当の本人も全く意に介していないようなのだが、この一見和やかな雰囲気の中にも、ひとり「変な人」を決めて、「わたしたちは違うもんね」という安心感を得るといったような、イジメの心理につながる胡散臭さが感じられなくもない。

 夕方になると、近くの公民館から、小さいお子様は早く家に帰りましょう、という有線放送がのんびりと流れる。そして朝の威勢のいい声そのままに、ノダさんが、「ただいまあ!!」と元気な声を張り上げて事務所に帰ってくる。
外に出かけていた人々も三々五々戻ってくるので、フロアは少し賑やかさをとりもどす。
 そして5時15分の終業時刻の鐘が鳴る。駅までは路線バスを使うので、停留所に並んでいるのは、みんな同じ職場の、しかも同じ課の人ばかり、ということもざらである。
 そんな時は、軽く「お疲れさま」の会釈はするものの、勤務時間が終われば、ひとりになってホッとしたいもの。ましてや、さっきまで席を並べていた人と停留所でもいっしょに並んで、会話をするというのはできれば避けたい。
 バスに乗り込むや、銘銘ちょっとづつ離れた席に腰をかけ外を眺める。この町は、新興住宅地と違い、自分の庭だけをきれいに飾るというのではなく、町全体を綺麗にしましょう、というところのようで、歩道や、畑の脇などの場所にも、色とりどりの花が植えられており、野菜の直売などの看板を見るのも珍しく、車窓からの風景も飽きない。
 バスが駅についたら、やはり、微妙な距離を互いにとりつつ、ホームへの階段をおりる。市街地だったら、「いつのまにか雑踏に紛れる」とか「寄るところがあるからここで失礼します」などと言えるのだが、なにぶん駅にいる人はまばらで、デパートもスーパーも無く、どう考えても立ち寄る場所などないので、「微妙な距離」を保ちつつ、電車に乗るしかないのである。前を行く同僚がふと歩くスピードを落としたりしようものなら、うっかり”並んで”しまい、なんとなくぎこちない気分になる。

 環境がまずまず落ち着くと、自分の持つ問題がよりよく見えてくるものである。
頼む頼まれる、という問題は、断る断られるという問題と表裏一体である。さしさわりのない挨拶から一歩進んで、どこまで人の好意に甘えられるか、どこまで自分を開き、閉じるか、居心地のいい距離のとりかたを、探していくことになるだろう。
                                                   2006/4
  

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