藤木さん

藤木さんは、わたしを受け持つセラピストだった。
  わたしはひと月に一度のペースで、彼に面接を依頼した。順番が来て、ドアをノックして中にはいると 彼はちらと顔を上げ、「ああ」とも、「へえ」とも聞こえるような声で答える。
  その日も彼は、大きな机越しに、でっぷりとした体躯を椅子に沈め、いつもの姿勢で座っていた。無造作に積み重ねられた本、周りをぐるりと囲み天井までびっしりと本や雑誌の詰まった本棚。校舎の壁に貼り付けらているような、大きくて丸い時計。
「さっき会ったね」
彼は、部屋にはいってきたわたしの姿を見てそう言った。
 そうだ。さっき、午後のカウンセリングまでにまだ時間があったので、ちょっと散歩でもしようと、商店街を横切ろうとしたそのとき、見慣れた顔を見つけたのだ。そこはコーヒーのチェーン店が開いているカフェで、歩道にはみ出すように椅子とテーブルが並べられている。そのひとつに、藤木さんが、煙草を吸いながら座っていたのだ。前に腰をかけているのは、スーツ姿の女性だった。彼はしばしばインタビューなどをされることもある人なので、てっきり何かの取材でも受けているのかもしれないと思った。
 わたしはひどく場違いなところで彼に会ったような、なんだか見てはいけないものを見てしまったようなとまどいを感じたのも事実だった。明らかに目があったのを確かめると、ちょっと礼をしてそそくさと通りを横切ったのだった。
 セラピストだって、いつもいつもカウンセリングルームにとじこもっているわけではない。ご飯も食べれば、電車にも乗る、コーヒーの一杯も飲むだろう。商店街の一角、歩道にはみだした椅子に座っていたからといって別にどうということはないのに。
「あんなところで会ってなんだかびっくりしました」わたしが言うと、藤木さんは、
「そうだね」と言った。
「随分と堂々として、からだが半分道路の方に、向いてました」
「煙草が吸いたかったからね。こそこそ会っても仕方ないでしょ」
「なんだか、仕事で会ってるに過ぎないんだからね、というのをアピールしてるみたいに見えました」
人の気持ちを推測するわたしのいつもの癖がつい出てしまった。

前の順番のクライアントがドアをあけて出てくるカチャリという音がすると、その瞬間、わたしの幻想は絶頂を迎える。これから何かいいことが起きるのかも、という幻想とも妄想ともいえないもの。
 しかし、挨拶をして、藤木さんを前にして座った瞬間、その幻想はあっけなく崩れ去る。なんだかどうでもいいようなことを話に来たような、違和感。「あの、大したことじゃないんですけど」と、妙に恐縮したように、言い訳でもしたくなるよるような気持ち。カフェに腰かけている彼の姿を見かけたとき感じたものと同じような、場違いな感覚。
 カウンセリングに臨む時は、話したいことをいつも完璧に原稿にまとめてきた。心に勝手に描いた相手に向けて。だから、会話が想定外の方向に流れていくと、心ここにあらず、なんとか脚本どおりにもどそうと内心あせった。
「さっき会ったね」―。だからその思いがけない言葉はわたしにとっては、あるまじきものであるはずだった。しかしその日のカウンセリングを終えて、一番記憶に残ったのはその言葉だった。
 カウンセリングルームで話された内容も、そしてセラピストも、原則外部に持ち出し禁止である。しかし偶然にせよ、外で見かけた、という経験をこの部屋で共有することで、ここが外の世界から隔離された場所ではなく、ひと続きになった同じ世界であるということが、彼のそのひとことで知らされたからだろうか。

本当に欲しいものは決して手にはいらない。さんざん歩き回ったデパートの店内で、ここにはわたしの欲しいものはどこにも売られていない、ということがわかると、どういうわけかホッとした。クリスマスの朝枕もとに置かれたプレゼント。サンタクロースがそりに乗った模様の包み紙、赤いリボン。包みを開くと、出てきたのは、わたしがリクエストしたものとはちがうものだった。しかし、さんざん探し回って選んでくれたのだと思うと、これじゃない、とは言えなかった。
 決して手にはいらないものは、わたしに安心感を与える。
「それじゃあまたね」終わりの挨拶とともに、静かに閉じられたドアの向こう、いつかきっと手にはいるという幻想とともにいつも置き去りにされるもの。
 果たしてわたしが本当に欲しかったものはなんだったのだろうか。最初は小さいものだったのが、目をそらしているうちに段々と巨大になっていき、自分でもわからなくなってしまったのではないか。きっとあるにちがいない、きっと居るにちがいない、とイメージだけで作り上げた想像上の場所、モノ、人。

「さっき会ったね」それは、幻想の中で作り上げた相手とではなく、生身の人間と会話した実感があったから、とても印象的だったのだ。

本来会話というものに筋書きなどないはずだったのだ。

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                                 2006/6