期待

  わたしにとって「期待」と「罪悪感」はいつも背中あわせだった。
 そのことを最初に感じたのはいつの頃だろう。
 子供の頃わたしは両親と公団アパートの3階に住んでいた。
 幼稚園にあがるかあがらないか、そのくらいの時、朝出勤する父を、窓から手を振って
見送るのがわたしの日課だった。
 ある日、わたしは急にその「日課」を破りたくなった。ドアをあけて出て行く父を見届けて
も、わたしはいつものようには窓枠によじ登らず、窓の下にしゃがんで身をひそめていた。
 上を見上げても、わたしがいないので、ひどくがっかりしている父を想像し、「わたしが手
を振ってくれるのを待っていたであろう父」の期待を裏切ってしまったという罪の意識で一
杯になり、わたしは窓枠にしがみついて泣いた。
 その頃、ヤマハ音楽教室に通い始めていたが、毎日決まった時間にオルガンに向
かって練習をさせられていた。
 隣では母がつきっきりで見ていた。
 曲の途中でつまずくと、そこからまた弾き始めればいいものを、わたしにはそれができな
かった。また最初に戻って弾き始め、1箇所のミスもせず、完璧に曲を弾き終わることを
自分で自分に課していたのだ。
 何度やっても同じところで間違えたり、せっかくそこをクリアしても今度は別のところでつ
まづいたりと、なかなか終わりまでいかず、ついには癇癪を起こし、しゃくりあげながら弾く
ハメになった。
 すると母はわたしの泣き声に苛立ち、「そんなに泣くならもうやりなさんな(やめなさい)!」
と言い捨てて、向こうへ行ってしまうのだった。
 それでもわたしは誰も聞いてくれることのない「完璧な1曲」を弾くことができるまでやめる
ことができなかった。
 通っていた幼稚園の隣に、園から見下ろす形で庭の広い家があった。
ある日のこと、休み時間に園庭で遊んでいる時に、一人のおばあさんがその庭で洗濯物
を干しているのを見つけたわたしは、「くそばばああーー!!」と彼女に向かって声を張り
上げて叫んだ。
 彼女には何の面識も恨みもなかったが、強いて言えばそこにおばあさんがいたから・・・
それだけの理由だった。
 それを聞いたおばあさんは、持っていた干しかけの洗濯物をかなぐり捨てて、門の方へ
突進して行った。
 おばあさんのいる所から、少し高台にあった園庭まで、少し距離があったので、彼女が
こちらへやってくるまでの間に、わたしはとっさに、園庭で遊んでいた園児たちの中に紛
れ込んで、なにくわぬ顔をして様子をうかがっていた。
 程なくして駆け込んできたおばあさんは、辺りをキョロキョロ見回していたが、みんな同じ
水色のお遊び着を着ていたので、どの子が犯人なのか見分けがつかないらしかった。
 近くにいた子をつかまえて何かを聞いていたが、その子が首を横に振ると、あきらめて
帰って行った。
 わたしは悪知恵のよく働く子供だったのだ。
 小学生になると、なんの理由もなく、同級生に雑巾を投げつけたり、下校途中に、友達
の頬をひっぱたいたりした。
 わたしに叩かれたその子は、真っ赤になった頬をおさえ、涙をいっぱいためたまま帰っ
て行った。
 翌日彼女は何事もなかったかのように、ケロリとした顔で「遊ぼう」と近寄ってきたが、
わたしは彼女を無視し、遠ざけた。
 一旦こじれた関係が修復できるとはとても思えなかった。1度こんなことをしてしまった
わたしが許されるとは思えなかった。 なんのわだかまりもないようにみえる彼女が不思
議だった。
 その後、とてもぎこちない関係のまま、6年生の時にわたしが引っ越したことで、彼女と
はそれきりになってしまった。
 両親には兄弟が多かったので、わたしにはいとこがたくさんいた。彼らには皆兄弟がい
て、一人っ子はわたしひとりだった。
 父方の叔母は性格がきつく、おせっかいな人で、「一人っ子はよくない」「一人っ子は
わがままになる」とよく母に言っていたが、母は言い返すでもなく、ただ伏せ目がちにお
愛想笑いをするだけだった。
 わたしは一人っ子であることがとてもいけないことのように思い、一人っ子であることを
隠しておきたかった。 
 一人っ子でないような性格というのはどういうことをいうのだろうー。
 積極的で他人に優しく、依存せず、協調性がある子供のことだろうと漠然と思ったが、
そのどれでもないわたしは一人っ子であることを呪い、ありのままの自分を出すことを恐
れた。
 悪知恵が働いて、意地悪……本当の自分はどうとりつくろっても自分がよく知っていた
から。
 傍目には礼儀正しくお辞儀をし、大げさに謝り、臆病さを隠すために大胆に振舞い、怒り
の矛先を自分からそむけさせるために、お調子者を演じ、人を笑わせる……。
表にあらわれたこれらの自分はなにひとつ本当の自分ではないと思っていた。
 通信簿の生活欄には必ず「消極的です」と書かれたが、それを見るたびに、全人格を否
定されたような気がした。
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