ひとり芝居

わたしの自己顕示欲は父親譲りである。
 足の先から頭のてっぺんまで、自己顕示欲の塊のように思えることがある。このことに最近まで気づかなかった。たった5文字のこの言葉を今まで知らないわけではなかったのだが、我が身と結びつかなかったのだ。それだけどっぷりと浸かっているのだろう。心の中で、自分の中の何かを恥じているというのは、以前からうすうすわかっていたのだが、その正体はこれだったのである。表現の仕方によっては、鼻に付き、時にはえげつなくさえある。同類の行いを見ると、琴線に触れるのは、自分自身を見るような気がするからだろう。時には、顕示欲同士の争いにも発展する。

 見せびらかし願望を周りに悟られないように、殊更うしろにさがり、目立たないように振舞うのであるがその一線引いた態度が、周りから浮いてしまい、かえって自分を際立たせることになる。
先日友人と3人で食事をしていた時のことだ。
「TOMATOさんて、なんていうか、会話にとどめを刺そうとするよね」
とどめ―。
そのとおりである。
ここで一発、気のきいたセリフを吐いて、自分を誇示しようとしているのかもしれない。

仕事をひとりで抱え込み、やっとこすっとこできたのに、そんな気配は微塵も出さない。涼しい顔をして見せるのもそうである。
 わたし自身がこの欲求にあまりいいイメージを抱いていないせいか、他人もあまり快く思っていないような気がして仕方がない。
 先日のことである。自分がしでかしたミスでもないのに、謝らなくてはならない時がある。職場ではありがちなことだ。わたしがゴム印の押す場所を間違えてしまい、そのことで同僚が注意を受け、代わりに彼女が詫びている。
 思わず、わたしは、「わたしがやりました」と名乗ったのだが、緊張していたせいか、なにやらせっぱつまったように響いた。
 さも、正直に白状しました、というように優等生的な言い方に聞こえなかっただろうか。
「ワシントンぶるんじゃないよ」と、自分で自分に対して、批判の目を向けていい訳しようとしてしまう。小理屈こねて、自分の言い分を相手の胸に杭打ちしようとする。
親切な行いをするときは、他人の目をさりげなくチェック。
なけなしの知識を得れば、早速お披露目したくなる。
 さりげなく、を装おうとすれば、すでにそう意識したところで、これみよがしになる。きちんとできたことも、大したことのないように「過少申告」してしまうのもなにやら嫌味、本当は、手柄をたてたと思っているのだから。
 これが極まれば、デパートのエレベーターで、たまたま階数ボタンを操作するお役目を賜ったときなど、この箱をとりしきっているような、「もしかしてエレベーターガール?」という感慨でいっぱい。

 電話のベルが、ルルルルル、と鳴り出す前の「ル」の段階で、誰よりも早く受話器を取ったときなど、カルタ大会で勝ったような気分になる。
 実に滑稽なひとり芝居である。
 自己顕示欲に終わりはない。これでもか、これでもかというように、次から次へと湧き出てくる。受けとめるほうは、掃き溜め状態で、さぞや大変であろう。
 この欲求自体は、それほど悪いことではないのかもしれない。人に認めてもらいたい、役に立ちたいという願望は誰にでもあることだ。隠そうとするから、歪んだ形でにじみ出たり、ささいな行動に自意識過剰になるのかもしれない。
 

 ええかっこしい、と言ってしまえばなんとなく柔らかで憎めなく聞こえるのだが、まだそこまで、この性分とは妥協できていないのである。

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