江戸時代の賑わう両国橋西詰付近を再現(撮影地・江戸東京博物館)
江戸・東京の風物
古典落語の舞台、江戸の街を歩いてみよう。
江戸時代の風物を知ることで
噺の理解も、さらに深まることでしょう。
それでは
江戸時代にタイムスリップです。
寛永の町人の街並み 江戸の街の人口は元禄時代を境に100万人を超えたとされている。 当時の先進都市であるロンドンやパリ、北京などの人口よりも多く、世界一の大都市となっていた。 |
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江戸の都市構造は武家を中心としていたため、町人は狭い地域にひしめき合うように暮らしていた。 江戸の街の占有面積は、武家60%、寺社20%、町人20%とされている。 |
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町の数は「江戸八百八町」といわれ、中期以降には、それを超えたとされている。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
町人は街道や河川沿いに住み、武家屋敷には緑が多く、水路がめぐっていた。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
参考 尺貫法
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棟割長屋での暮らし 過密都市江戸の代表的な庶民住宅(江戸時代後期)。 落語の噺にも、代表的な舞台として数多く登場する。 建具屋の半兵衛か? |
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指物 指物とは、板材を組み合わせて作る木工のことで、日本でも古くから技術が発達しているが、特に江戸時代に発展したとされる。家具製作が中心で箪笥・机・椅子・茶棚などの大物と、硯箱・煙草盆などの小物とがあるが、超高級品から一般品まで、技術の幅は大変広い。 |
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指物に携わる職人は指物師あるいは指物屋と呼ばれ、居職が基本である。細かな工程と正確で緻密な作業を要し、道具も鑿・鉋・錐を中心に大小さまざまな種類がある。指物は各地で発達しているが、江戸指物は簡素の中に堅牢なつくりを特徴とし、伝統を引き継ぐ職人が今も製作を続けている。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
産婆さんが、赤ちゃんを産湯につからせている様子。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
江戸時代の出産は一般に座産で、産婦は天井から吊り下げた綱や介添え人を支えにして出産した。生まれた子には産湯をつかわせるが、このとき産婆はたらいの前に腰掛け、赤児をうつ伏せに両脚にのせ沐浴させた。これはへその緒の切り口に湯がかかるのを防ぐためと、背中は五臓を宿す大切なところであるため、眼を離してはいけないという中国の説によるためだという。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
一方、産婦も、頭に血が上らないようになどとの俗説から、産後も産椅や積み上げた布団によりかかり、座ったまま七日七夜を過ごさねばならなかった。そのため健康をそこねることも少なかったという。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
長屋の内の道具を観察してみると…… | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
この長屋の住人は物売り(棒手ふり商人=ぼてふりしょうにん)であったと思われる。 魚や野菜などを天秤棒を担いで売り歩いた。 |
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三井越後屋 江戸本店(ほんだな) 呉服店 本町2丁目 江戸時代に「現金掛け値なし」の新商法で大繁盛した三井越後屋は、同じ場所で商売を続け日本有数のデパート「三越」として現在に至っている。 |
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着物の布地など呉服を販売した。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
店頭で定価販売する商法で大繁盛した。現・三越本店(東京・中央区日本橋室町1丁目) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
大名屋敷 越前福井藩主 松平伊代守忠昌邸 |
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大名は領地と江戸の屋敷を行き来して暮らしていた。 大名屋敷は数千から数万坪の面積を有する。さらに藩主が住む上屋敷、隠居後の中屋敷、別荘にあたる下屋敷などを持つ。 また、「八万旗」といわれる旗本・御家人も屋敷を持つほか、千以上の寺社が広大な境内を持っていた。 江戸の街は将軍家に所有権があり、城下町は幕府の論理が最優先され、城を中心に造られた。土地はほとんど武家に占有されていたことがわかる。落語の笑いには、その原動力に庶民が権力に対して抱く怨恨、その力によるところもあったのだろう。 |
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江戸城 現在、皇居東御苑として一般に公開されている。 |
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江戸城本丸大広間、松の廊下 諸大名が将軍にまみえる大広間に続く松の廊下。 |
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両国橋西詰(にしづめ) 火事を防ぐために橋のたもとに広い空き地を作った。そこに芝居小屋や見世物小屋台が建ち並び大いに賑わった。 |
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隅田川端の両国橋西詰広小路には、見世物小屋、髪結床、水茶屋などがいくつも立ち並び、屋台や大道芸人も多く集まった。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
江戸時代後期の街並みを再現。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
現在の東京・中央区東日本橋2丁目付近。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
江戸時代には見世物小屋や屋台で賑わったが、明治維新後に一掃され、商店が建ち並ぶ市街地になった。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
活気にあふれる隅田川の川面。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
両国橋の盛り場。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
日本橋 1603年(慶長8年)には完成したと言われる。その後何度か架け替えられ、現在の橋は1911年(明治44年)に架けられ、東海道などの出発点となり、交通の中心地となった。 また日本橋は、船では運ばれた魚やこめが集まる場所として、魚河岸、米河岸、材木河岸が設けられた。 全長 28間(51メートル) 幅 4間2尺(8メートル) 橋桁はケヤキ材で作られ、チョウナで削ったあとが、魚のうろこのようになっている。 幕府の陸上輸送担当佐馬役所が設けられた。 |
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歌舞伎・助六の舞台 18世紀後半、江戸時代の代表的な演目「助六」の衣装・大道具・小道具など。 |
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芝居小屋 中村座 江戸を代表する芝居小屋は、天保の改革で堺町から浅草の猿若町に移転した。1893年(明治26年)に焼失し、再興されなかった。 |
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神田の山車 山車と言えば、当然「勇壮に練り歩く」。江戸っ子は、「いきがいい」。 |
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乗り物にのってみよう 大名の籠 |
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菱垣廻船(ひがきかいせん) 「天下の台所」である大坂と大消費都市・江戸を結ぶ定期船として運行。木材・油・紙などの生活用品を上方(関西地方)から運んだ。 |
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人力車 人力車の製造と営業は1870年(明治3年)、東京で始まった。 |
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力車 1870年(明治3年)に東京で製造の許可を得た後、数年で日本全国、さらに海外にも普及した。 |
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リンタク 昭和20年代。終戦後の一時期、3輪自転車がタクシーかわりに使われた。 |
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オーディナリー型自転車(だるま型自転車) 1880年(明治13年)。前輪が後輪よりとても大きいので「だるま自転車」と呼ばれた。 |
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昭和初期の自動車。爆発的なヒットとなった。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
昭和初期のタクシー。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
明治・大正・昭和時代の東京 井戸とみられている。 |
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朝野新聞社 1872年(明治5年)の「東京日日新聞(現・毎日新聞」を皮切りに次々と新聞が創刊され、近代ジャーナリズムが開幕した。「朝野新聞」は1874年に創刊され、社長の成島柳北、主筆の末広鉄腸らが新政府を辛辣に批評、人気を博した。 東京では、1887年(明治20年)までに150紙にのぼる新聞が発行されたが、それらが竣工したばかりの銀座煉瓦街(日本初の洋風商店街)に集まり、銀座はジャーナリズムの中心地になっていった。とりわけ銀座4丁目の交差点には、「朝野新聞」「曙新聞」「東京横浜毎日新聞」という代表的な政論新聞が社屋を構え、自由民権運動の高揚にともない互いに論陣を張った。 「朝野新聞」は1893年(明治26年)に廃刊。社屋跡地には服部時計店(現・和光)が建ち、時計塔を持つ建物は銀座のシンボルとして親しまれている。 銀座煉瓦街には、広い車道に並木を植え、煉瓦敷きの歩道にガス灯を灯し、各商店の店頭にアーケードを張り出した。 |
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明治時代の洋館を再現。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
凌雲閣 浅草のランドマークタワーとして親しまれた凌雲閣。関東大震災(1923年・大正12年)で崩れ、取り壊された。 |
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戦時中の庶民の家 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
できるかな?体験コーナー | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
千両箱を持ってみよう 江戸時代後期天保小判壱千両。一枚、1・3グラム。 |
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肥桶(こえおけ)を担ごう 江戸周辺の農民は江戸の町の下肥を汲み取っていた。下肥(しもごえ=ふんにょう)は田畑の肥料として活用された。下肥は大切な資源で、農家側が金銭を支払ったり、野菜と交換したりして得ていた。約20キロほどあり、天秤棒が肩に食い込む。 |
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コリトンゲーム 昭和初期。原型はアメリカから輸入されたゲーム盤。家庭用の高級なおもちゃとして普及した。 |
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自働電話 1900年(明治33年)。東京・京橋付近に設置された電話ボックスを再現。 |
古典落語の背景、江戸時代の庶民の暮らしをイメージすることができましたでしょうか?
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注1・この頁の写真は、すべて江戸東京博物館(東京都墨田区横綱)で撮影しました。
注2・また撮影に際し、イランから日本に訪れていたモハメド・アツ氏に、試乗や体験コーナーなどで撮影モデルとしてご協力いただきました。
モハメド・アツ氏は、日本文化を勉強されるために江戸東京博物館を訪れておりました。
現在、社会福祉関連の仕事をするなかで、日本語と韓国語を勉強されているようです。取材日当日は韓国語のパンフを手に館内を周っておりました。
「明確な入国目的はありませんが(笑)、テロリストでもありません」と、ブラックユーモアを交えて話す日本語はなかなか上手でした。
ご協力ありがとうございます。
注3・本頁の記事は、江戸東京博物館の展示解説文とパンフを参考に作成しました。
2002年3月17日配信(撮影日・3月3日)
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