江戸時代の賑わう両国橋西詰付近を再現(撮影地・江戸東京博物館)

江戸・東京の風物

古典落語の舞台、江戸の街を歩いてみよう。
江戸時代の風物を知ることで
噺の理解も、さらに深まることでしょう。

それでは
江戸時代にタイムスリップです。

寛永の町人の街並み

 江戸の街の人口は元禄時代を境に100万人を超えたとされている。
 
 当時の先進都市であるロンドンやパリ、北京などの人口よりも多く、世界一の大都市となっていた。
 江戸の都市構造は武家を中心としていたため、町人は狭い地域にひしめき合うように暮らしていた。
 
 江戸の街の占有面積は、武家60%、寺社20%、町人20%とされている。
 町の数は「江戸八百八町」といわれ、中期以降には、それを超えたとされている。
 町人は街道や河川沿いに住み、武家屋敷には緑が多く、水路がめぐっていた。
 参考 尺貫法
長さ
1丈(じょう) 10尺 3、03m
1尺(しゃく) 10寸 30、3cm
1寸(すん) 10分 3、03cm
1分(ぶ) 3mm
距離
1里(り) 36町 3、93km
1町(ちょう) 60間 1、82m
1尺(しゃく) 30、3cm
面積
1町(ちょう) 10反 3000坪 99a(ア−ル)
1反(たん) 10畝 9、9a
1畝(せ) 30坪 99平方m(0、9a)
1坪(つぼ) 6尺平方 3、3平方m
1尺平方  0、09平方m
        
重さ
1貫(かん) 1000匁 3、75Kg
1斤(きん) 160匁 600g
1匁(もんめ) 3、75g
銭一枚の重さが匁の基準となったとされ、一文の目方と書いて匁と 読ませた和製漢字
容量

1石(こく)
10斗 100升 0、18kl
1斗(と) 10升 18l
1合(ごう) 10勺 0、18l
1勺(しゃく) 0、018l

            
棟割長屋での暮らし

 過密都市江戸の代表的な庶民住宅(江戸時代後期)。

 落語の噺にも、代表的な舞台として数多く登場する。

 建具屋の半兵衛か?
指物

 指物とは、板材を組み合わせて作る木工のことで、日本でも古くから技術が発達しているが、特に江戸時代に発展したとされる。家具製作が中心で箪笥・机・椅子・茶棚などの大物と、硯箱・煙草盆などの小物とがあるが、超高級品から一般品まで、技術の幅は大変広い。
 指物に携わる職人は指物師あるいは指物屋と呼ばれ、居職が基本である。細かな工程と正確で緻密な作業を要し、道具も鑿・鉋・錐を中心に大小さまざまな種類がある。指物は各地で発達しているが、江戸指物は簡素の中に堅牢なつくりを特徴とし、伝統を引き継ぐ職人が今も製作を続けている。
 産婆さんが、赤ちゃんを産湯につからせている様子。
 江戸時代の出産は一般に座産で、産婦は天井から吊り下げた綱や介添え人を支えにして出産した。生まれた子には産湯をつかわせるが、このとき産婆はたらいの前に腰掛け、赤児をうつ伏せに両脚にのせ沐浴させた。これはへその緒の切り口に湯がかかるのを防ぐためと、背中は五臓を宿す大切なところであるため、眼を離してはいけないという中国の説によるためだという。
 一方、産婦も、頭に血が上らないようになどとの俗説から、産後も産椅や積み上げた布団によりかかり、座ったまま七日七夜を過ごさねばならなかった。そのため健康をそこねることも少なかったという。
 長屋の内の道具を観察してみると……
 この長屋の住人は物売り(棒手ふり商人=ぼてふりしょうにん)であったと思われる。
魚や野菜などを天秤棒を担いで売り歩いた。
三井越後屋 江戸本店(ほんだな) 呉服店 本町2丁目

 江戸時代に「現金掛け値なし」の新商法で大繁盛した三井越後屋は、同じ場所で商売を続け日本有数のデパート「三越」として現在に至っている。
 着物の布地など呉服を販売した。
 店頭で定価販売する商法で大繁盛した。現・三越本店(東京・中央区日本橋室町1丁目)
大名屋敷

 越前福井藩主 松平伊代守忠昌邸
 大名は領地と江戸の屋敷を行き来して暮らしていた。
 
 大名屋敷は数千から数万坪の面積を有する。さらに藩主が住む上屋敷、隠居後の中屋敷、別荘にあたる下屋敷などを持つ。

 また、「八万旗」といわれる旗本・御家人も屋敷を持つほか、千以上の寺社が広大な境内を持っていた。

 江戸の街は将軍家に所有権があり、城下町は幕府の論理が最優先され、城を中心に造られた。土地はほとんど武家に占有されていたことがわかる。落語の笑いには、その原動力に庶民が権力に対して抱く怨恨、その力によるところもあったのだろう。 
江戸城

 現在、皇居東御苑として一般に公開されている。
江戸城本丸大広間、松の廊下

 諸大名が将軍にまみえる大広間に続く松の廊下。
両国橋西詰(にしづめ)

 火事を防ぐために橋のたもとに広い空き地を作った。そこに芝居小屋や見世物小屋台が建ち並び大いに賑わった。
 隅田川端の両国橋西詰広小路には、見世物小屋、髪結床、水茶屋などがいくつも立ち並び、屋台や大道芸人も多く集まった。
 江戸時代後期の街並みを再現。
 現在の東京・中央区東日本橋2丁目付近。
 江戸時代には見世物小屋や屋台で賑わったが、明治維新後に一掃され、商店が建ち並ぶ市街地になった。
 活気にあふれる隅田川の川面。
 両国橋の盛り場。
日本橋

 1603年(慶長8年)には完成したと言われる。その後何度か架け替えられ、現在の橋は1911年(明治44年)に架けられ、東海道などの出発点となり、交通の中心地となった。

 また日本橋は、船では運ばれた魚やこめが集まる場所として、魚河岸、米河岸、材木河岸が設けられた。

 全長 28間(51メートル)
 幅 4間2尺(8メートル)
 橋桁はケヤキ材で作られ、チョウナで削ったあとが、魚のうろこのようになっている。

 幕府の陸上輸送担当佐馬役所が設けられた。
歌舞伎・助六の舞台

 18世紀後半、江戸時代の代表的な演目「助六」の衣装・大道具・小道具など。
芝居小屋 中村座

 江戸を代表する芝居小屋は、天保の改革で堺町から浅草の猿若町に移転した。1893年(明治26年)に焼失し、再興されなかった。
神田の山車

 山車と言えば、当然「勇壮に練り歩く」。江戸っ子は、「いきがいい」。
乗り物にのってみよう

 大名の籠
菱垣廻船(ひがきかいせん)

 「天下の台所」である大坂と大消費都市・江戸を結ぶ定期船として運行。木材・油・紙などの生活用品を上方(関西地方)から運んだ。
人力車

 人力車の製造と営業は1870年(明治3年)、東京で始まった。
力車

 1870年(明治3年)に東京で製造の許可を得た後、数年で日本全国、さらに海外にも普及した。
リンタク

 昭和20年代。終戦後の一時期、3輪自転車がタクシーかわりに使われた。
オーディナリー型自転車(だるま型自転車)

 1880年(明治13年)。前輪が後輪よりとても大きいので「だるま自転車」と呼ばれた。
 昭和初期の自動車。爆発的なヒットとなった。
 昭和初期のタクシー。
明治・大正・昭和時代の東京

井戸とみられている。
朝野新聞社

 1872年(明治5年)の「東京日日新聞(現・毎日新聞」を皮切りに次々と新聞が創刊され、近代ジャーナリズムが開幕した。「朝野新聞」は1874年に創刊され、社長の成島柳北、主筆の末広鉄腸らが新政府を辛辣に批評、人気を博した。
 
 東京では、1887年(明治20年)までに150紙にのぼる新聞が発行されたが、それらが竣工したばかりの銀座煉瓦街(日本初の洋風商店街)に集まり、銀座はジャーナリズムの中心地になっていった。とりわけ銀座4丁目の交差点には、「朝野新聞」「曙新聞」「東京横浜毎日新聞」という代表的な政論新聞が社屋を構え、自由民権運動の高揚にともない互いに論陣を張った。
 
 「朝野新聞」は1893年(明治26年)に廃刊。社屋跡地には服部時計店(現・和光)が建ち、時計塔を持つ建物は銀座のシンボルとして親しまれている。

 銀座煉瓦街には、広い車道に並木を植え、煉瓦敷きの歩道にガス灯を灯し、各商店の店頭にアーケードを張り出した。
 明治時代の洋館を再現。
凌雲閣

 浅草のランドマークタワーとして親しまれた凌雲閣。関東大震災(1923年・大正12年)で崩れ、取り壊された。
 戦時中の庶民の家
できるかな?体験コーナー
千両箱を持ってみよう

 江戸時代後期天保小判壱千両。一枚、1・3グラム。
肥桶(こえおけ)を担ごう

 江戸周辺の農民は江戸の町の下肥を汲み取っていた。下肥(しもごえ=ふんにょう)は田畑の肥料として活用された。下肥は大切な資源で、農家側が金銭を支払ったり、野菜と交換したりして得ていた。約20キロほどあり、天秤棒が肩に食い込む。
コリトンゲーム

 昭和初期。原型はアメリカから輸入されたゲーム盤。家庭用の高級なおもちゃとして普及した。
自働電話

 1900年(明治33年)。東京・京橋付近に設置された電話ボックスを再現。

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注1・この頁の写真は、すべて江戸東京博物館(東京都墨田区横綱)で撮影しました。
注2・また撮影に際し、イランから日本に訪れていたモハメド・アツ氏に、試乗や体験コーナーなどで撮影モデルとしてご協力いただきました。
モハメド・アツ氏は、日本文化を勉強されるために江戸東京博物館を訪れておりました。
現在、社会福祉関連の仕事をするなかで、日本語と韓国語を勉強されているようです。取材日当日は韓国語のパンフを手に館内を周っておりました。
「明確な入国目的はありませんが(笑)、テロリストでもありません」と、ブラックユーモアを交えて話す日本語はなかなか上手でした。
ご協力ありがとうございます。
注3・本頁の記事は、江戸東京博物館の展示解説文とパンフを参考に作成しました。
2002年3月17日配信(撮影日・3月3日)

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