特派員レポート

我が友 船坂さん


船坂さんは、ヘリコプターのパイロット、三段峡の入り口の落合さんの離れを借りて、別荘代わりにしていました。
その彼とはひょんなことから付き合いが始まったのです。
私が交通事故にあった話は、随筆「生と死と」に書きました。あの入院したときに始まるのです。

戸河内病院の2階の病室は4人部屋、隣のベッドに四合の松本君がいました。そこへ彼の別荘の隣人というわけで、船坂さんが見舞いにこられたのです。一言二言話をしただけの人が、退院して3−4ヶ月もしたころ、リストアしたジムニーに乗って来場、そのときは正直な話、彼のことは忘れていました。それまでは私にとってはただの通りすがりの人でした。

ところが話をしてみると、お互いに年齢、職業、生き方が違うものの、考え方や趣味などに共通点があったのです。今考えると彼は違う世界に住む私の中に、自分の影を見たのかも知れませんね。そして私は若いときに夢見た、機械や電気の世界に住む船坂さんに、興味を持ったのでした。
車のリストアの話、エンジン、塗装、機械の応急手当、などなど、話は尽きませんでした。

次にこられたときは、シトロエンのバン、これも人にもらったとかで、ようやく動くようにしたぞと、自慢をされに。
そして車内に泊まれるようにするんだと、板張りの床を作っていました。「俺なら畳を敷くがの」と申し上げると、「そうかー」とうなずいていましたっけ。

その後、何回かおいでになり、そのうちに奥様もご一緒されるようになりました。
事務所でストーブを囲みながら、皆で雑談する楽しい時間を持つ、そんなこともありました。
奥さんが子育てが済んでから高校に入学したこと、それを家族で応援していると、船坂さんが楽しそうに話されて、私たちはいいご夫婦にお会いしたと喜んだものです。

ところが、もう6年前になりますか、木枯らしが吹き始めた11月、突然ご夫婦でおいでになりました。
「やあ、お久しぶり、お元気でしたか」何も知らない私は、いつもの挨拶を口にしました。
ところが「それが元気でないのよ」と、普段の彼とは違う返事が返ってきました。とっさに顔色をうかがうと、尋常でないやつれ方をしています。
「どうしたんね?」と聞くと、「実は、肺ガンでの、医者のいう余命がもうないんよ」さすがに驚きました。命の終わりのガン患者への対応の難しさは父をはじめ、多くの人を見てきて、それなりに理解しているつもりの私は、心の動揺を顔に出してはいけないと、、まず、それを考えたのです。

「開けてみたんかー?」
「開けたんよ。そして、後3ヶ月と言われたのよ。その3ヶ月がもうないんよ。」と。
言葉がありませんでしたね。

そのとき、彼は私に助けを求めにきた、そう感じたのです。取るに足らない私に。それなら、おざなりではいけない。心で話さなくてはと、そう判断したのです。

「そうか、でも私はね、生き物と裸の付き合いで生きている。だから、あなたとは違った考えをもっとるんよ。
たとえば、植物は、種を撒き、芽が出て、双葉が開き、葉が出て、茎がのび、花が咲く。
やがて実がつき、そして枯れて土に帰る。私の見てきた自然には、例外はひとつもなかったんよ。
だから自然の掟には、生き物として素直に受け入れて生きることにしているのよ。そしてその折り目折り目を懸命に生きる。愚痴を言いながらでもね。特に、あなたとの出会いになった事故からは、朝目が覚めたら、今日も生きてる、儲けた、さあ、何をやろうかと、考えることにしたんよ。私はそうやって生きている。人に勧めはしないがね。」

「そうか、自然の中で生きている人間は、考えることも違うんだな。
でもなー、見浦さん、夜が寝られんのよ。」と。

当たり前です。迫ってくる死のことを考えて平静でいられる人間などいるわけもありません。酷いなとは思ったものの、日ごろの考えを口にしました。

「なして、無理に寝ようとするのよ。それだけ時間がもうかったと、なぜ考えんのよ。2度とない時間なら、読書をしても書き物をしてもやることはやまほどあるはず。神様の贈り物とかんがえられんかの?身体が必要としたら、自然が眠りに連れて行ってくれる。寝にゃいけんとかんがえるけー、寝られんのよ。」

「そうか、そう考えるのか、そう考えればよかったよのー」そういった、彼の顔が明るく輝いたと感じたのは、私の思い過ごしだったのでしょうか。

別れの挨拶が済んで、車に歩く二人が「来てよかったの、もう1度きてみたいのー」「もういっぺん来ましょうで」と話す声が聞こえました。車が見えなくなり、これが船坂さんとの今生の別れだったと思うと、胸の中にいっぺんに哀しみがこみ上げました。

それから、何日か後に、彼が死んだと風のたよりがありました。短い付き合いだったのに、悲しみの度合いは大きかった。

1年が経ちました。突然、奥さんが息子さんと訪ねてこられました。やっと心の整理がついたので報告に来ましたと。
帰られて15日後になくなられたとか、最後の3日間は呼吸困難が始まったので、入院したけれど、それまで自宅で過ごされたとか話されました。

私たちは好きあって一緒になり、助け合って人生を送ってきたのに、その最愛の人が悩み苦しみながら死を迎える、それを見なければならない、考えると耐え切れない恐怖でした。
ところが、小板からかえってから、彼は人が変わって、淡々と時間を過ごしてくれました。かえって周囲の人が心根をおもって影で泣いていましたと。
息を引き取るときに、「おーい、待ってくれー」それが最後の言葉でしたと。
「おかげで彼とのいい思い出が壊れずに済みました、ありがとうございました。」と礼を言われたのです。

未熟な私の人生観で、人生最大の恐怖を乗り越えた船坂さんは、かえって私の先生かも知れません。
「見浦さん、あなたの考えは正しいよ。私が証明したよ。」と。
今、私は74、人生も終わりに近づきました。しかし、この心の平静は、彼のメッセージのおかげだと思っています。

我が友、船坂さん、あなたとの出会いも、私の大切な出会いでした。

(掲載:2005年11月26日)