同行崩壊す〜村社会の壊滅〜 平成16年の春、小板の部落総会で一つの議案が可決されました。 私が大畠(オオバタケ)の家を代表して、集落の組織 「小板部落会」に出席を始めたのは、確か19歳のときからです。ですから、この部落の歴史を自分の目で確かめ始めてから55年、父が集落内の事をよく話してくれていましたから、(小学校を卒業した頃からのことは、私なりの解釈ではありますが。)それを含めると60年以上、随分長い小板の時間を見つめていたことになります。 見浦家の先祖は、関が原の合戦で、西軍に属していたと聞きます。落武者狩に追われて中国山地を徘徊し、匹見(島根県)の芋原(山の向こう)に落ち着いたのだと。そこから分かれて小板にきたのは350年程前。その時すでに、4軒の先住者がいたといいますから、かれこれ400年以上もこの集落が存在してきたのだと思うのです。山間の交通の不便な豪雪地帯、何かにつけて助け合わなくては生きて行けない処でです。 私が集落に参加した時は、数多くの申し合わせ(不合理と思われる事も沢山有りました)が不文律としてありました。その一つが同行(ドウギョウ)だったのです。 私も最初は同行の意義は分かりませんでした。ただ、お葬式の時は、両隣の人が願人(ガンニン)として現れる。そしてお葬式の総てを取りしきる。田舎の葬式は、こうして行なわれるものと思っていました。 その同行がなくなる、しかも部落の総会で多数決で決まったとは、驚きました。口伝だった同行の規約を、明文化し統一したのは私でしたから、ショックは大きかった。 総会から帰った息子に問いただすと、部落の財産管理の組織、小板振興会の財政が破綻状態で、お葬式に今までのような援助が出来なくなった。過疎と高齢化で人員の確保が出来ない(各戸1人ずつ出る取決めでした)。基本が崩れたのだから、同行そのものを廃止して自治会長が葬儀社を斡旋する、そんな形にすれば、集落に負担がかからなくて済む、そんな提案だった聞きました。「人数もないし、金もないのなら、同行はあっても、なくても同じよー」との声で、反対者もなく多数決で決まったと。彼も対案を持たない以上賛成票をいれる他はなかったと、答えたのです。 そこで、彼に"同行は助け合いの原点、皆がその本質を誤って解釈し、手間返しの集まりと理解しているけれど、本当は助けを求められたら、出来る人は許す限り力になってあげる、そんな助け合いの組織なんだよ。それを改善でなく全廃して、これからこの集落が続くと思うのか"と意見をしたのです。 昭和17年の年末、父が先峠(サキダオ:国道191号線深入峠)で炭を焼いていた、鍛冶口と言う人を配給品の事で訪ねた時、(当時は焼子と言って、親方の山に炭小屋と居小屋を作って住み込み、歩合で生活する人が居ました)奥さんが出てきて、主人が2日ほど前に死んだ、相談する所もないので、米びつに押し込んであります、天候が良くなり次第外へ出して焼くつもりですと。仰天した父は部落に帰って、同行を集めて鍛冶口の葬式をしてやろうと提案したのです。ところが「ありゃー小板の同行じゃないけー、やるこたあーいらんよー」の声が上がったといいます。烈火の如く怒った父の「他人の不幸を思いやる事が出来ない奴の手伝いはいらん。わし一人でも葬式をしてやる」の言葉に、同行が動いて、全員で葬式を出してあげたと聞いていました。仲間も「そんな事があったの、そうそう鍛冶口さんだったのー」と。その話しをしたのです。 和弥(息子)は、それから3日ほど考え抜いて"親父さん、同行を再建して欲しい。考えて見たが同行は助け合いの基本だった。基本が間違っては集落は生き残れない。総会で賛成して、それをひっくり返す行動に出れば、信頼を失い、批判される事は重々承知だが、非難は全部私が負うから、是非動いて欲しい"と。 さて、最初口伝だった同行を文章化した話は、今は故人の小笠原福美さんから始まりました。口伝の規約は人によって幾通りも解釈ができます。葬儀が始まっているのに、喧々囂々意見がまとまらないことが、数多くありました。願人が違うとやり方も違う。そこで、小笠原君が「見浦君に、同行の規約を文書にまとめてもらおうや」と総会に提案したのです。面倒な仕事は若い奴に押し付けるに限ると、意見は一致しましたね。私が30を越したばかりのことです。それが最初の「小板部落葬儀施行細則」です。何もないところから始めるのですから、単語一つでも苦労しましたが、知らないと言う強みもあって、当家とか、野武士とか、強引に解釈して文章を作りました。昭和51年5月の事です。 まず、同行の人達は労力奉仕なのです。お金持ちと、生活が一杯の人と、お金のあるなしで、葬儀に違いのある事は間違いだと思いました。それなら、葬儀の内容に天井を設けてやれと。そこで、お寺さんは3人まで、花輪は禁止、生花は一対まで、お棺は箱棺で、上に金襴(金襴は集落で購入して使用する)をかけるだけ、等々。皆が、それが、何を意味するのか判らない内に賛成を貰いました。 簡素ながらという言葉の裏に私のささやかな願いが込められています。都会でもそうですが農村は周囲を意識しすぎます。「隣がああだったから、うちはあれにゃあ負けられん。」そんな見栄の張り合いが強いのです。私が集落に入ってまもなく、ある事件が起きました。 小板では、毎年12月に持ちまわりの報恩講が開かれていました。ところが、あるお家で引き出物として参加者にアルマイトの汁杓子が出ました。今の100円ショップで見るような安物でしたが、みるみるエスカレートして大きなお鍋になるのに時間はかかりませんでした。住民に大きな負担になったのは言うまでもありません。それを防ぐ意味での簡素な葬儀は大切なことなのです。残った家族の経済的負担を最小にする。新同行には、そんな思いもあるのです。 さて、時代の流れで人口が減り始めました、特に38豪雪とよばれる4メートルに及ぶ大雪はその勢いに弾みをつけました。時は高度成長とよばれる日本繁栄の時期、その気になれば都会に仕事はいくらでもありました。 .同行の中に大工さんがいなくなりました。お棺が作れなくなりました。そこで、素人でも作れる厚いコンパネと呼ばれるベニヤ板で作ることにしました。ところが、不幸があってから、板を買いにゆくのでは、半日以上無駄になります。それで、振興会が買い置きする事になりました。 さて、小板では葬式が4−5年有りませんでしたから、その内機会があったら取り上げて、集落の人達に考え直してもらおうと思っていました。 和弥は、”俺は悪者になってもいいから、小板の住民の立場になって収拾してくれ”と、重ねて頼みます。彼に、この様に本気で頼まれたのは初めてでしたね。 葬儀が済みました。案の定、不満が続出しました。当事者のHさんは、”小板ではこの方式で葬儀をすると説得された。最近住民になったばかりなので、詳細は知らず従うしかなかった。葬式が済んでから、いろいろ納得がいかない点が多かった。”そう話してくれました。大切なお母さんの葬儀が問題を含む形で強行された。当事者ではない私も”小板の住民として申し訳ない”と、頭を下げるだけでした。 さて、どう収拾するかを考えました。まず、財団法人小板振興会からの補助は考えられなくなりました。次に過疎と老齢化で労力不足も現実です。これでは従前の方式での同行は全く不可能です。では、同行が始まった原点に思考を戻してみよう、そう考えたのです。 この新同行になって4人の方を見送りました。特に今回は30代の青年が「見浦さん、この方式でいける」と言ってくれました。嬉しい嬉しい一言でした。 小板新同行は試行錯誤をしながら、これからも存続の為に努力して行きます。 2006.7.27 見浦哲弥 (掲載:2007年1月14日) |