PETER ALLEN “僕の歌が僕の伝記さ”

こん太


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 オーストラリア出身のシンガー・ソングライターでエンターテイナーのピーター・アレン(Peter Allen)が92年にエイズで亡くなって、今年(99年)で7年になる。6年前「ぽこあぽこ」創刊号に僕は彼を紹介する文章を書いたのだが、その文の最後を“彼が亡くなってしまって、これからも彼の作品が人々によって歌い継がれていくかどうかわからないけれども、少なくとも僕とピーター・アレンの歌とのつきあいはこれからも続くにちがいない”と締めくくった。その通り、あれから後も僕はピーターの音楽をずっと楽しんできて、時が経つほどにますます彼の歌に夢中になっている。嬉しいことに、ここ数年また彼の音楽が(特にオーストラリアの)人々に再評価されつつあるようだ。下に、その後僕がマニアックに集めたピーター関連の情報を挙げてみると…。

・93年の米テレビ映画『運命の瞬間 そしてエイズは蔓延した/AND THE BAND PLAYED ON』のラストにはエイズで亡くなった有名人たちの映像が次々と映し出されるが、その中に、ピアノの上に飛び乗り派手に歌うピーターの姿があった。

・95年7月5日、Stephen MacLeanが監督したピーターの1時間のドキュメンタリー・スペシャル『THE BOY FROM OZ』がオーストラリアのABCテレビで放映され、そのサントラも発売される。

・95年、長らく廃盤となっていたピーターの71年発表ソロ・デビュー・アルバム「PETER ALLEN」がオーストラリアのRAVENレーベルより世界初CD化される(RVCD-53)。アルバム・カバーのイラストを担当したのはポール・ジャスミン(Paul Jasmin※1)。

・95年、オーストラリア映画『プリシラ』(94年)が日本で公開された時のこと、この映画はオーストラリアのカンタス航空が協賛していたが、映画が始まる前に上映されたカンタス航空のCMに、ピーターが生まれ故郷について書いた歌〈I STILL CALL AUSTRALIA HOME〉のインストゥルメンタル・ヴァージョンが使われていた。

・95年10月、 ウェンディー・リー(Wendy Leigh)が93年にアメリカで発表したライザ・ミネリ(ピーターはライザの最初の夫)の伝記「LIZA : BORN A STAR」が「ライザ・ミネリ 傷だらけのハリウッド・プリンセス」のタイトルで翻訳出版される(蒲田耕二訳 東亜音楽社)。ピーターに関する記述も多い。

・96年に日本公開されたオーストラリア映画『ミュリエルの結婚/MURIEL'S WEDDING』(94年)にはピーターのヒット曲〈I GO TO RIO〉が使われていた。

・96年、Random House AustraliaよりStephen MacLean著、ピーターの伝記「Peter Allen : THE BOY FROM OZ」が出版される。

・97年には、ピーターと同じくオーストラリア出身のなかなか美男の舞台俳優David Campbell(ゲイらしい…)が、アメリカで出したセカンド・アルバム「TAKING THE WHEEL」(PHILIPS)の中でピーターの書いた〈I HONESTLY LOVE YOU/愛の告白〉をとりあげ、そのライナーで“ピーター・アレンの曲は全て好きだ”とコメントしていた。この〈愛の告白〉はオリビア・ニュートン=ジョン(Olivia Newton-John)の歌で74年に全米No.1ヒットになり、同年のグラミー最優秀レコード賞にも選ばれ、およそ40のカバー・ヴァージョンがあるというが、昨98年オリビア自身もこの曲を、デヴィッド・フォスター(David Foster)のプロデュースでBabyfaceをバックコーラスに迎え、再録音しシングルとして発表した。

・昨98年3月、実に10年ぶりに日本独自に新しく組まれたピーターのA&Mレーベル時代のコンピレーション・アルバム「A&M デジタル・リマスター・ベスト/ピーター・アレン」が発売される。

というように、どんなささいなことでもピーターに関するものを目に耳にした時、彼と彼の歌がその死後も愛されているのを知り、僕はとても嬉しく思っていた。そして昨98年はもうひとつ、9月21日の朝日新聞の夕刊に掲載された植田耕司さんという人が書いた「南の演劇王国 オーストラリアの舞台から」という文の中に、ピーター・アレンの名を見つけたのだ。そこから一部を抜き出してみよう。

 シドニー演劇界の今年一番のヒットは、三月のオープン以来、客足が衰えない純国産ミュージカル「ザ・ボーイ・フロム・オズ/THE BOY FROM OZ」のロングランだ。オズはオージー、つまりオーストラリア人のこと。ハリウッドに進出し、「アイ・ゴー・トゥ・リオ」などヒット曲を連発し、アカデミー賞(歌曲賞)を受賞した国民的スター、ピーター・アレン(1944ー1992年)の一代記だ。上演されているハー・マジェスティーズ劇場は、セントラル駅前にあり、格式も高い。幕が開くと舞台の真ん中に設けられた高さ十メートル近いらせん階段からアレンが歌いながら下りてくる。このあと、彼がナレーターを兼ねながら軌跡をたどっていく。
 アレンは十代で人気歌手になり、大女優ジュディ・ガーランド(Judy Garland)に才能を見いだされてハリウッドに渡る。さらに彼女の娘ライザ・ミネリ(Liza Minnelli)と結婚した「シンデレラ・ボーイ」。舞台は、単なる成功物語としてでなく、少年役を登場させ、十一歳で近所のパブで歌って金を稼ぐようになったほろ苦い体験を盛り込むなど、光と影を強調した作りになっている。
 だが、女装した男優をまじえたライン・ダンスの場面やアレンが「私はオーストラリア人だ」と述べるトークの場面に熱狂。往年のヒット曲に手拍子を打つ観客の姿を見ると、エンターテインメントとして楽しめる作りが、人気を博しているようだ。
 アレンを演じるのはミュージカル界のスター、トッド・マッケニー(Todd McKenney)。作家は超売れっ子ニック・エンライト(Nick Enright)、演出はロイド・ウェバー作品で世界的に活躍するゲイル・エドワーズ(Gale Edwards)。作品の内容はもちろん、俳優、スタッフのすべてをオージー尽くしにしたのが特色。鳴り物入りで宣伝したのも功を奏し、かつてない成功作となった。(中略)
 ゲイルらスタッフ陣を育てた国立演劇学校のジョン・クラーク校長は教え子をたたえながら「オーストラリアのミュージカル史上、画期的な作品となった」と位置づけた。
 シドニー在住のベテラン女優で演出家のシアン・ニューウェイは、「オーストラリア人にとって、アレンは誇りであると同時に、結局は故国に戻らなかったというつらい存在。彼に対する複雑な思いが願望になって舞台のアレンに肩入れするのでしょう」ととらえている。
 ロングランはまだ続きそうだ。シドニー公演を終えてもすぐにメルボルンや西オーストラリア州へのツアー公演が始まるという。

 カラー写真付きの上記の記事を読んで、僕はしばし感慨にふけってしまった。ピーターにとって、ブロードウェイで自作のミュージカルを成功させることは永年の夢であった。その夢をかなえるべく5年がかりで取り組んできたピーター主演・音楽(制作費は500万ドル!)のミュージカル「LEGS DIAMOND」(禁酒法時代のギャングの物語)は88年の暮に念願かなってようやくブロードウェイで幕を開けたのだが、結果は大失敗に終り、晩年の彼はツキに見放されたかのようであった。そのピーターの生涯が現在本国でミュージカル化され大ヒット中であり、“画期的な作品”とまで言われ、そしてピーターは今やオーストラリア人の“誇り”で“国民的スター”と記されるまでになったとは…。きっと彼も天国かどこかで喜んでいることだろう。

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 朝日新聞の記事を読んだ約2ヶ月後にこのミュージカルのオリジナル・キャスト・アルバムを手に入れることが出来たのだが、その選曲や歌の使われ方が非常に鮮やかで、本当に感心してしまった。ピーターのヒット曲、代表曲が使われているのはもちろんなのだが、それに加えて、彼の歌の中では見過ごされがちな(あるいは、ほとんど知られていないと言ってもいいであろう)ミュージカル「LEGS DIAMOND」からの曲が4曲も使われていて、これがまた物語の進行に大変重要な役割を果たしているようなのだ。大失敗した「LEGS DIAMOND」の曲が、ここへきて初めてその本来あるべき場所を見つけたといった感じであろうか。ピーターのドキュメンタリーを監督し、伝記を記したStephen MacLean氏がコンサルタントとしてこのプロジェクトに関わっている功績は大変大きいと思われる。また、オリジナル・キャスト盤を聴いて知り得ることだけから判断しても、この作品自体とても誠実さのあるもののようだ。

 音楽が大好きなピーターは幼い頃からパブなどでピアノを弾き生活費を稼いできたのであるが、14歳にしてアル中の父親の猟銃自殺を経験する。その後ティーンの頃にはクリス・ベル(Chris Bell)とコンビを組みデュオ・グループ“アレン・ブラザーズ(The Allen Brothers)”として活躍。そして64年に香港(※2)のヒルトン・ホテルに出演している時、オーストラリア公演の後にその地へ立ち寄ったジュディ・ガーランドの目にとまり、彼女はアレン・ブラザーズを、自分の前座として(最初はロンドン、そして後に)アメリカへ呼び寄せることになるのだ。

 このミュージカルにはもちろんジュディやライザ・ミネリも登場し、彼女たちもピーター作の名曲を歌い物語は進行する。ライザとピーターは64年の11月にロンドンで初めて顔を合わせ、3週間後には婚約し、(65年の春からマンハッタンで一緒に暮らし始め)67年の3月に結婚するのであるが、ライザがピーターがゲイであることを知ったのは結婚の3週間後だったという(The Advocate 96年9月3日号のライザのインタビューより)。この作品では、伝記ものによくありがちな“ゲイの主人公をストレート化して描く”とか“ゲイであることには触れない”といったことはせず、ピーターがゲイである事実も、ありのままに描かれているのが嬉しい(本来それが当たり前なのだが…)。
 またこんなところもある。ピーターを可愛がった義理の母ジュディ・ガーランドは、69年6月22日に47歳で睡眠薬ののみすぎによりロンドンで死亡したが、ゲイ・アイコンであった彼女の死が6月27日の夜からグリニッチ・ビレッジで起こった“ストーンウォールの叛乱(The Stonewall Riots)”のひとつのキッカケになったといわれている。それをこのミュージカルでは、ピーターがジュディに捧げた曲〈QUIET PLEASE, THERE'S A LADY ON STAGE/レディーの登場!!〉を彼女の死の場面に使い、その後に“ストーンウォールの叛乱”を報道するニュースのナレーションを重ねるという巧みな演出で、戦後のゲイ・リブの出発点となった事件をもきっちりと取り込んでいるのである。

 ジュディの死後、ピーターとライザは結局70年の春には別れ(正式離婚は74年の7月)それぞれの道を歩むことになるが、二人の姉妹のような愛情関係はピーターが亡くなるまで続いたという。ライザと別れたピーターはクリスとのコンビも解消し、シンガー・ソングライターとして身を立てていく決心をする。そしてその後ピーターの長年のパートナーとなるべく登場するのは、もとモデルで後にピーターのショーの照明と舞台監督、ツアー・マネージャーを務めことになるGregory Connellという人物である。グレッグの名はピーターのアルバムにいつも感謝の言葉とともに記されていたが、彼もまたピーターより早く84年9月にエイズで亡くなるのである。
 ピーターがエイズをめぐる状況をテーマに書いた〈LOVE DON'T NEED A REASON〉は90年に発表された彼の最後のアルバムに収められている曲だが、これはもともとラリー・クレイマー(Larry Kramer)のエイズを扱った劇「THE NORMAL HEART」の映画化の際の主題歌として86年に書かれたものであった(といっても未だに映画化されてないのだが…)。この曲はその共作者のマイケル・カレン(Michael Callen→写真)やマーシャ・マラメ(Marsha Malamet※3)がレコーディングしているのはもちろん、アメリカ各地のGay Men's Chorusやさまざまなシンガーにとりあげられ、現在はエイズ・オーガニゼーションの非公式なアンセムになっているという。そういった背景を持つこの曲が、劇中グレッグが死ぬ前にピーターによって歌われ、またグレッグからは〈I HONESTLY LOVE YOU/愛の告白〉がピーターに向けて歌われるようだ。このようにピーターとグレッグの愛もちゃんと描かれているのだ。さすが、あれ程のマルディ・グラの行われる国のミュージカルだけはある(?)。

 その他、このオリジナル・キャスト盤に収められているピーターの曲は、日本では〈あなたしか見えない〉という邦題でリタ・クーリッジ(Rita Coolidge)の歌で知られる〈DON'T CRY OUT LOUD〉、同じくリタのヒットでこちらも数多くのシンガーに歌われた〈I'D RATHER LEAVE WHILE I'M IN LOVE/愛しているからさよならを〉(これはライザとピーターの別れの場面に使われている)、ジュディ・ガーランドが映画『若草の頃/MEET ME IN ST.LOUIS』(44年)の中で歌った〈THE BOY NEXT DOOR〉にインスパイアされて生まれた曲〈NOT THE BOY NEXT DOOR〉(もちろんこのミュージカルのタイトル『THE BOY FROM OZ』のOZもジュディの映画『オズの魔法使/THE WIZARD OF OZ』(39年)をひっかけてあるのは言うまでもないだろう)、ピーターが故郷を歌った〈I STILL CALL AUSTRALIA HOME〉と〈TENTERFIELD SADDLER〉など、どれも彼の生涯を描くのに欠かせないものばかり全20曲。
 その中でもやっぱりいちばん一般に人々に知られている曲は、元妻のライザが出演した映画『ミスター・アーサー/ARTHUR』(81年)の主題歌で、ピーターとキャロル・ベイヤー・セイガー、バート・バカラック、クリストファー・クロスの4人が共作した〈(ARTHUR'STHEME) BEST THAT YOU CAN DO/ニューヨーク・シティ・セレナーデ〉ではないだろうか。これは81年にクリストファー・クロスの歌で全米No.1ヒットとなり、同年のアカデミー主題歌賞も受賞したとても美しい曲である。実はこの曲のピーターの書いた部分はコーラスの“When you get caught between the moon and New York City ”だけなのであるが(それだけでオスカー受賞なんて…という声が聞こえてきそうだが…)、この1行がいかに大切でまた歌のキーとなる部分であるかは、この曲の日本語タイトルにもあらわれていると思うし、この1行がどれほどピーターの人生に大きな意味を持ったかは“月とニューヨーク・シティの間に”はさまれて踊るピーターが描かれているこのオリジナル・キャスト・アルバムのジャケットのイラストでも明らかであろう。

 ピーターは92年6月18日、カリフォルニアのサン・ディエゴで帰らぬ人となった。彼の唯一の義理の母だったジュディが亡くなった年齢とほぼ同じ、48歳での死であった。その死はもちろん劇中でも描かれ、そこでは彼の実母のマリオンが〈DON'T CRY OUT LOUD〉をオーストラリア訛りで歌うが、そのまま彼の死の場面で舞台が終わるといったありふれた手法はとられていない。このオリジナル・キャスト・アルバムのジャケットに描かれたイラストを見ると、踊るピーターは手にマラカスを持っているが、これは彼が〈I GO TO RIO〉のビデオ・クリップを撮影する時に用いたものであったという。77年にオーストラリア、ブラジル、フランス※4で大ヒットしたこのラテン・ディスコ風の元気いっぱいのナンバー〈I GO TO RIO〉は、その後ピーターのトレードマークになった作品でもある。そんな曲がオリジナル・キャスト・アルバムの最後に収められていて、彼の最大のヒット曲で大いに盛り上げて舞台も幕を閉じるといった、趣向を凝らしたすがすがしいラストが用意されているのだ。この明るく胸踊るフィナーレにも拍手を送りたい。

 音楽評論家の青木啓氏はピーターの音楽を評して“鋭い才気、美しい詩情、そしてユーモアのセンスの光る詞とポップで印象的なメロディ・ラインを持っている”と述べたが、まさにその通り。そこに僕は、ピーターの歌に対する誠実さも彼の歌の最大の魅力のひとつであると付け加えたい。人生が終りに近づいた頃、自伝を書くつもりはないかと尋ねられ、ピーターは“僕の歌が僕の伝記さ(My songs are my biography.)”と答えたという。〈LOVE DON'T NEED A REASON〉を一緒に作ったMarsha Malametはピーターのことを“彼の世代で最も正直なシンガー・ソングライターのひとり”と称したが、彼の歌詞をじっくり読んでみると、そのセクシュアリティを含め、彼がどれほど自分の歌に忠実であったかがわかるであろう。彼の実体験から生まれた歌であったからこそ、これ程までに、彼の生涯をミュージカル化した作品に、彼の書いた曲がぴったりとフィットしたのである。

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 最後に、現在入手できるピーター・アレンのベスト・アルバムを紹介しておこう。少しでも彼の音楽に興味を持ち聴いてみたいと思われたなら、まず次の日本盤を手に入れることをお勧めする。選曲も良く20曲入っている。ただし歌詞カードと対訳は間違いだらけだが…。
A&M デジタル・リマスター・ベスト
 日本盤 ポリドール POCM-1581 ¥2548 (98年)

その他、輸入盤では
PETER ALLEN AT HIS BEST
 アメリカ盤 A&M RECORDS 31454 0090 2 (93年)
THE VERY BEST OF PETER ALLEN
 オーストラリア盤 A&M/Polydor 540 827-2 (97年)
SINGER-SONGWRITER THE ANTHOLOGY
 オーストラリア盤3枚組 A&M/Polydor 540 845-2 (98年)
の3種が出ている。それと今回紹介したオリジナル・キャスト盤は
THE BOY FROM OZ ORIGINAL CAST RECORDING
 オーストラリア盤 EMI 7243 4 95660 2 6 (98年)

これらの輸入盤は、アメリカ盤なら輸入CD店で、オーストラリア盤ならhttp://www.cdnow.comのオンラインで手に入れることができる。

 また、ピーターの曲はさまざまなシンガーに取りあげられているので、その中で最近僕が気に入っているものを少しだけ紹介しておくと…。
ひとつはジャズ歌手のマーク・マーフィー(Mark Murphy)が88年に発表した〈WHEN THIS LOVE AFFAIR IS OVER/思い出の扉〉。少しヴォリュームを大きくして聴くと、彼の息づかいまで聞こえてきて、本当にこの曲を歌うマーク・マーフィーはセクシーなのだ。
もうひとつはブロードウェイで活躍しているという女優Christine Andreasが97年に録音した〈LOVE DON'T NEED A REASON〉で、一部歌詞を変えてしまっているのが少し気になるが、伸びやかな美しい声で歌うこのヴァージョンは最高!本当に鳥肌がたってしまう程。

 では、ピーター・アレンの音楽をお楽しみあれ…。

(注釈)
※1 Paul Jasmin モンタナ生まれの画家で写真家。彼はピーターの親友で、ピーターとライザ・ミネリの結婚式で、新郎の付添いも務めた。ジャスミンはまたピーターの「BI-COASTAL」のアルバム・ジャケットも描き、「I COULD HAVE BEEN A SAILOR」のアルバム・カバーでもクリエイティブ・アシスタントを務めている。その他アシュフォード&シンプソン、ジャーメイン・ジャクソン、マーヴァ・キング、バリー・マニロウ、デヴィッド・バトウなどのレコード・ジャケットも手掛け、映画『アメリカン・ジゴロ』(80年)や『愛と青春の旅立ち』(82年)のポスターも彼の作品(どれも独特の色使いが素晴らしい!)。もともと俳優志望だった彼は、若い頃“モンゴメリー・クリフトの再来か第二のゲーリー・クーパーか”と言われるほど美男だったらしい。あのアンソニー・パーキンスの親友でもあった(ということは当然ゲイ!)ジャスミンは23歳の時、なんとヒッチコックの映画『サイコ』(60年)でノーマン・ベイツの“母親”の声のアフレコを担当したというから、オドロキ!また1969年の映画『真夜中のカーボーイ』にも、ポール・ジャバラ同様パーティの客役でエキストラ出演している。

※2 香港 余談になるが、僕が93年に香港へいった時、“プロパガンダ”というゲイ・ディスコ(今もあるの?)で30代後半ぐらいのオージーと話す機会がありピーターのことが話題に出たのだが、広告関係の仕事をしているというその人は、ピーターがフランク・シナトラ(Frank Sinatra)に書いた曲〈YOU AND ME (WE WANTED IT ALL)〉についてのエピソードなどを僕に話してくれた。そのオージーは個人的にピーターの事を知っていたと言ってたが…。なお、シナトラの歌うこの曲は84年の米映画『ペーパー・ファミリー/IRRECONCILABLE DIFFERENCES』にも使われた。

※3 Marsha Malamet 彼女は、チャカ・カーンに〈THIS TIME〉、ルーサー・ヴァンドロスに〈CRAZY LOVE〉、ダイアナ・ロスに〈IN THE ONES YOU LOVE〉、バーブラ・ストライサンドに〈LESSONS TO BE LEARNED〉を書いて最近注目されつつある、レズビアンであることをカムアウトしているシンガー・ソングライター。マーシャ自身のホーム・ページはこちら

※4 フランス 〈I GO TO RIO〉はフランスでは〈JE VAIS A RIO〉というタイトルでクロード・フランソワ(Claude Francois)が歌うフランス語ヴァージョンも出た。

★この文章は、GAY-FRONT関西(現G-FRONT関西)の機関誌「ぽこあぽこ/Poco a Poco」12号(1999年4月1日発行)に掲載されたものです(一部訂正・加筆しました)。