ニューヨークのゲイ・シンガー ピーター・アレン

こん太

 僕のお気に入りのシンガー=ソングライター、ピーター・アレン(Peter Allen)をご紹介します。彼の歌を知ったのは1979年、彼がいてくれたおかげで“straight and tall”(ウソ)に無事成長することができました。そう、ちょうど彼が<SIMON>の中で歌ったように…。

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 僕とピーターとの出会いは、彼が作曲しリタ・クーリッジ(Rita Coolidge)が歌って1979年の東京音楽祭でグランプリをとった<DON'T CRY OUT LOUD>だった。彼女が歌うこの曲が大好きだったので、同じ頃リリースされ雑誌などでも紹介されていた彼自身のアルバム「I COULD HAVE BEEN A SAILOR」も聴いてみたいと思ったもののレコードを買うまでには至らなかった。翌1980年の春には竹内まりやが「LOVE SONGS」というアルバムで彼の書きおろしの<FLY AWAY>をとりあげ、再び彼に注目。でも、本当に彼に興味を持ったのはもう少し後のこと。その頃、高校生の僕は映画大好き少年で、毎月2・3種類の映画雑誌は必ず買っていたのだが(当時の僕のアイドル、ライアン・オニールが目当てで…)、そのうちのひとつ「スクリーン」誌の1980年10月号の音楽関係のページで彼が次のように紹介されていた。

ピーター・アレン PETER ALLEN

 映画「オール・ザット・ジャズ/ALL THAT JAZZ」で主人公ジョー・ギデオンの愛人ケイトと娘ミシェルが踊るダンス・ナンバーの曲として使われているのがライブ仕立てでピーター・アレンのうたう<EVERYTHING OLD IS NEW AGAIN>。今、“ニューヨークのゲイ・シンガー”として大受けに受けている通好みのシンガー=ソングライターである。
 ピーター・アレンは1944年にオーストラリアの小さな町テンターフィールドに生まれた。幼少の頃からピアノを習いショウ・ビジネスに憧れていた彼は、10代に入るとロックンロールに夢中になり、シドニーへ出て歌手のクリス・ベル(Chris Bell)とコンビを組んでTVに出演したりしていたが、この頃の共演者には今ではスーパースターになったヘレン・レディー(Helen Reddy)やオリビア・ニュートン・ジョン(Olivia Newton-John)がいたという。
 やがてピーターは日本や香港のホテルやクラブのステージに立つようになる。彼の達者な日本語はこの時に覚えたものらしい。1964年、香港のヒルトン・ホテルでうたっている時に俳優のマーク・ヘロン(Mark Herron)と新婚旅行にやってきたジュディー・ガーランド(Judy Garland)の目にとまり、ジュディーは彼らを自分の前座としてアメリカへ連れていった。そしてピーターは1967年、ジュディーの娘ライザ・ミネリ(Liza Minnelli)と結婚するが、数年で別れている。
 その後ピーターはソロ歌手として1971年にメトロメディアからデビューLPを発表。その頃からヘレン・レディーなどが彼の作品をうたうようになって注目されるようになり、ピーターは1974年、A&Mと契約して「コンチネンタル・アメリカン/CONTINENTAL AMERICAN」と「愛の鍵/TAUGHT BY EXPERTS」の2枚のアルバムも出す(日本では廃盤)。現在、日本で入手できるのは1979年に発売された「あなたしか見えない/I COULD HAVE BEEN A SAILOR」のみである。このタイトル曲はリタ・クーリッジ、メリサ・マンチェスター(Melissa Manchester)も録音しており、またかつてのオリビア・ニュートン・ジョンの大ヒット<愛の告白/I HONESTLY LOVE YOU>も彼の作品である。1975年、ヘレン・レディーの日本公演の前座とつとめて来日した。(K)

 彼は、当時ゲイであることを隠していない数少ない歌手の一人だった。彼がゲイだと知って、彼の作品をぜひとも聴いてみたいと思うようになった。ちょうどその年の終わり近くにピーターはニュー・アルバム「BI-COASTAL」を発表。そのアルバムを大晦日に購入したのを覚えている。当時、グループ‘エアプレイ(Airplay)’の一員として、又、プロデューサーとして大活躍のデヴィッド・フォスター(David Foster)がプロデュースしたこの作品は最高の出来で、彼はすぐ僕のお気に入りのシンガーになった。曲自体のクオリティーの高さはもちろんのこと、ペイジズ(Pages)のコーラスが又よい!ピーターのヴォーカルと美声のペイジズのヴォーカルのからみがセクシーで、最高の効果をあげている。作品は意味深なタイトル曲(BI-COASTALはBI-SEXUALをひっかけたものではないかと話題になった)に加え、ゲイの男でなければ決して歌わないで内容の<SIMON>(せつない詞に注目!)、デヴィッド・ラズリー(David Lasley)(彼もゲイでしょう)と共作した名曲<I DON'T GO SHOPPING><SOMEBODY'S ANGEL>、竹内まりやがとりあげた作品を改作した<FLY AWAY>など、当時大流行していたAOR(アダルト志向のロック)サウンドのラインで作られていながらも、それらのように使い捨てられるものとは一線を画する永遠の輝きをもつ作品集であった。

 そのアルバムを買って一週間後、僕は前作の「I COULD HAVE BEEN A SAILOR」をあちこちのレコード屋に探し回った。そしてやっと見つけた時は、「このレコードは僕に買われるためにここにあったんだ」と思い入れ過度になるほどうれしかった。このアルバムもジャケットからしてゲイ感覚があふれている。曲はゲイが自分自身をポジティヴに受け入れることを歌った(僕の解釈)<IF YOU WERE WONDERING>、ゲイのカップルの生活を描写したと思われる<WE'VE COME TO AN UNDERSTANDING>、コレット(Colette)、プルースト(Proust)おまけにルー・リード(Lou Reed)などのゲイまたはバイのアーティスト達の名が出てくる歌<PARIS AT 21>、加えてあの名曲<DON'T CRY OUT LOUD>に今やセミ・スタンダード?となった<I'D RATHER LEAVE WHILE I'M IN LOVE>(どちらも、ピーターの友人で作詞家のキャロル・ベイヤー・セイガーCarole Bayer Sagerとの共作)もこのアルバムに含まれていた。このアルバムはピーター自身、自分のベストだと言っている作品で、僕も非常によく聴いたものだ。

 翌1981年はピーターに大きな事件があった年だった。彼がキャロルやバート・バカラック(Burt Bacharach)、クリストファー・クロス(Christopher Cross)と共作した<ARTHUR'S THEME(BEST THAT YOU CAN DO)>(映画「ミスター・アーサー/ARTHUR」主題歌)がクリストファー・クロスの歌で全米bPとなり(ピーター作でナンバーとなったのはオリビア・ニュートン・ジョンが歌った<I HONESTLY LOVE YOU>についで2度目)、さらにこの曲でアカデミー主題歌賞を受賞!このアカデミー授賞式の模様は日本でもTV放映され、ピーター達4人がプレゼンターのベット・ミドラー(Bette Midler)(!)からオスカーを手渡されるシーンも見ることができた。ピーターは飛び上がって大喜びだった。
 ベットの名前が出たついでに、ここで彼とベット・ミドラーの関係についてちょっと一言。ベットがゲイ達が相手を見つける為の社交場だったニューヨークのクラブ(バス・ハウス)「コンチネンタル・バス/Continental Baths」のアトラクションで名をあげたのは有名な話だが、そのベットの後釜としてこのクラブで人気を博したのが他ならぬピーターであった(余談になるが、なんとあの伝説のクラブ「Paradise Garage」のDJラリー・レヴァンや最近リミキサーとして大人気のフランキー・ナックルズもここでDJをしていたとか…)。又、ピーターはベットの前座としてウエスト・コーストに進出し、レコーディングの契約を結んだという。そんな昔からの仲間である彼女からオスカーを受け取ったのは感激であっただろう。受賞曲発表の前にベットがノミネートされている曲をいつもの彼女らしく、おもしろおかしく、ダーティー&ワイルドに紹介していったのだけれども、この曲のときは「いい曲です」のひと言だけだったのが印象的だった。
 この時期(1979年から1981年あたり)がピーターのキャリアの中で一番ピークの時だったようである。ちょうどAIDSという病気が現れる前の、アメリカのゲイ達が一番元気だったころと一致するのは皮肉な偶然。

 その後、僕は彼の古いレコードをどんどん買い集めていったのだが、そうこうするうちに1983年の春、ピーターはアリスタへ移籍して新作「NOT THE BOY NEXT DOOR」を発表。この作品には正直言ってガッカリしてしまった。まずジャケットが最悪。いくらピーターのファンの僕といえども不気味としか言いようのないしろもの。おまけに、かつてスタンダードの<JUST A GIGOLO><THE MORE I SEE YOU><AS TIME GOES BY>をとりあげた時とは違って、ピーターがとりあげる必然性のない二流AOR作家の作品が含まれているし(アリスタの社長クライブ・デイヴィスのさしがね?)、アレンジも大げさすぎてよくない。やっぱり彼はA&Mを離れるべきではなかったのでは…という出来であった。でも、その2年後(1985年)にでた「CAPTURED LIVE AT CARNEGIE HALL」は最高の出来でピーターは健在なりを印象づけた。ここでは、アーヴィング・バーリン・メドレーや、人に提供していたもので、彼自身は今までレコード化していなかった作品もいろいろ聴くことができる。ピーターの集大成的アルバムである。

 そのライブ・アルバムをリリースしたのち、彼に関する情報はまったく入ってこなくなり。時代が時代だけに「もしかしてAIDSで亡くなったのでは…」と、僕はこれまでのレコードを聴き直しては思っていた。後でわかったことなのだが、実はこの時期、彼は自作のミュージカル「LEGS DIAMOND」にかかりきりになっていたようだ。その間には、日本でもA&M時代の名盤2枚がCDで再発されたり、日本編集のベストCD「ピーター・アレン」が発売されたりもした。

 次に彼と再会したのは、1989年の1月14日の朝日新聞の夕刊(なんと写真入り)「ピーターはまだ生きていた!」と妙に感動してしまった。その記事は次のようなものであった。

●500万ドルのミュージカル不評

 開幕まで五年間のトラブルがあった因縁のミュージカル「レッグス・ダイヤモンド」が昨年末、ブロードウェーで初日を迎えた。制作費五百万ドルを投じたこの舞台は、禁酒法時代のギャングの物語。脚本はハーベイ・ファイアスティーン(注:Harvey Fierstein あの「トーチソング トリロジー」の脚本&アーノルド役の彼です)。オーストラリア生まれの、ピーター・アレンが主演した。
 初日の劇場には、正装したニューヨーカーが詰めかけ、客席からは大きな拍手が起きた。が、閉幕直後に出たニューヨーク・タイムズ誌の批評は、「大きく、新しいブロードウェー・ミュージカルと自称しているこのショーは、別に大きくも、新しくも、音楽的でもない」と手厳しい。(ロイター)

 同時期に出たTIME誌(1989年1月9日号)のTheaterのページでも、このミュージカルはめちゃくちゃ酷評されていた。5年がかりで取り組んできた作品が失敗で、彼はどんなだったろうか。

 彼のことがあまり話題にならなかった80年代も終わり、90年代に入るとピーターは、ディオンヌ・ワーウィック(Dionne Warwick)が主催し、日本でもTV放映された“THAT'S WHAT FRIENDS ARE FOR”AIDS Concert '90(6月30日、ロサンゼルス・ユニバーサル・アンフィ劇場)に出演。AIDSをテーマにした曲<SO MUCH DEPENDS ON LOVE TODAY>と<LOVE DON'T NEED A REASON>を熱唱。その年の秋には、待ってました!のニュー・アルバム「MAKING EVERY MOMENT COUNT」を発表。このアルバムには、AIDS Concertで歌った2曲に加え、メリサ・マンチェスターやあの美男ハリー・コニックJr.(Harry Connick,Jr.)とのデュエット曲、又、マルティカ(Martika)がヴォーカルで参加した作品なども含まれたゴージャスなものであった。僕はもう、スタジオ録音としては7年ぶりの新作の登場に感激。これからどんどん新作を発表してくれるのでは、と期待し喜んだのもつかの間、やっぱりあの病気の猛威は彼を素通りしなかったようだ。

1992年6月18日 AIDSのためサンディエゴの自宅で48歳で死去。
「ライザ・ミネリの元夫がエイズで死去」と日本の新聞などで報道されたのは、まだ記憶に新しい。

 彼はかつて雑誌「POPEYE」のインタビューに答えて「1になる歌よりも長い間歌われる歌を作っていきたいんだ」(95号/1981年1月25日号)と言っていた。実際、彼の曲は今までも多くの歌手にとりあげられてきた。例えば、次のようなぐあいである。

ピーター・アレン提供作品一覧

 彼が亡くなってしまって、これからも彼の作品が人々によって歌い継がれていくかどうかわからないけれども、少なくとも僕とピーター・アレンの歌とのつきあいはこれからも続くに違いない。彼の歌を知って以来、彼は“There's nothing wrong with being me.”という言葉で僕を元気づけてくれた。

ありがとう、PETER !!


ふろく 「彼について僕が知っている九の事柄」

(1)1982年の英仏合作映画「ココ・シャネル/CHANEL SOLITAIRE」(マリー・フランス=ピジェ主演)の主題歌を担当。彼の歌う<ONE AND ONLY>がラストに流れた。

(2)1983年、三宅一生(Issey Miyake)の作品写真集「BODY WORKS」(小学館)にモデルのひとりとして登場。イッセイはピーターがお気に入り?

(3)LD「ディオンヌ・ワーウィック/ザ・グレイテスト・ステージ(Dionne Warwick in London)」の中でピーターはディオンヌと<SOMEBODY'S ANGEL>をちょっぴりデュエット。

(4)詩人でシンガー=ソングライターのロッド・マキューン(Rod McKuen)とは交流があったようで、ピーターは彼に<WILL WE EVER FIND OUR FATHERS>という曲をプレゼント。それに対してロッドは1977年に、彼の著書「父よ…/FINDING MY FATHER」(パシフィカ)の中で次のようにコメント。“私が好きなソングライターであるピーター・アレンは、<われわれは父を見つけるだろうか>という歌を私に送ってくれた。そのタイトルを見て私は驚いたが、歌詞を読み、曲を聞くと、その歌がとても好きになり、その日のうちにレコーディングした。当時私のレコードを発売していたワーナー・ブラザーズは、「商売にならない」と言ってこのレコードの発売を拒否した。私は現在でも折を見てこの歌をコンサートで歌ったり、友人たちのまえで歌ったりしている。街角で歌ってもいいくらいに気に入ってるし、最近ではシンシナティ交響楽団をバックに歌ったりした。” (2004年5月14日追記:ロッドの歌うヴァージョンは、彼自身のレーベル STANYAN RECORDS 発売、1977年のアルバム「MORE ROD '77」に収録されている事が判明しました。)

(5)1980年の米映画「オール・ザット・ジャス/ALL THAT JAZZ」(ボブ・フォシー監督)の中でピーターの曲が使われたシーンは、長く退屈なこの映画の中で、あの男=女、女=女、男=男のダンスシーン「エアロティカ」(必見!)と並び、ハイライト・シーンとなった。

(6)1982年10月4日号のTIME誌のPEOPLEのコーナーにアル・ジョルスン(Al Jolson)に扮した彼が登場。アメリカでの知名度は日本にそれと比べものにならない。

(7)彼のアルバムのSpecial ThanksのところにいつもみられるGregory Connellなる人物が、彼の恋人であったのではないか?(注:実際にそうであったことが後に彼の伝記より判明)

(8)1981・2年頃、ミス・ユニバースのアメリカ国内大会にピーターがゲスト出演。アメリカ各地からの美女に囲まれ、歌い踊った。これは日本でもTV放映され、僕は偶然見ることが出来た。彼のクイア?な踊りに、一緒に見ていた僕の父は「変な」印象をもったようだった…。

(9)最後に「ローリングストーン・レコードガイド」に載ったStephen Holden氏によるピーター評を。「ニューヨークのキャバレー・ミュージック界に君臨するアレンは、ノエル・カワード(Noel Coward)の都会的センスを思わせる最も新しい存在。巧みに練り上げられたポップ・ソングは気障りなものからロマンティックなものまでさまざまである。「TAUGHT BY EXPERTS」は洒落たディスコ調の<I GO TO RIO>やノスタルジックな<SIX-THIRTY SUNDAY MORNING>が、ニューヨークのキャバレーの繊細さを芸術的な極致にまで高めている。」

★この文章は、サークルT(現G-FRONT関西)の機関誌「ぽこあぽこ/Poco a Poco」創刊号(1993年6月1日発行)に掲載されたものです(一部訂正・加筆しました)。書いてから10年以上も経った今読むと本当に‘赤面’な文章ですが、当時の僕の‘思い入れ’だけでも感じていただければと思い、ほとんどそのまま載せています(単なる言いわけ)。