◆飛鳥から(奈良県)

2002/10/20

せっかく法隆寺まで来たのでちょっと足を伸ばそうとことになりました。まあ、相変わらず計画性のない話なんですが。で、どこにしようかと葛餅(蜜がいまいち)を食べながら思案していると、観光雑誌がお店にありました。つらつらと眺めていると「古墳群」の記事が目に入りました。これですがな、これ!確か「キトラ古墳」ってのが最近、発見されたはず。お店の人にそれとなく聞いてみると「あれは今、工事中なんですよ。」あらら残念。「でも、飛鳥の近くに行けばレンタルサイクリングとかあって結構、見て回れますよ。」とのアドバイスをもらった。

いいんぢゃない、サイクリング。善は急げってなもんで、早速、「飛鳥」に急行。
ありますね。自転車。違法に放置してあるんぢゃないかと思うほどあります(無断で乗ってはいけません)。車の駐車場も安心。お店も何件かあって、選り取りミドリです。1000円/台/日。重量級のボクや短い足の連れ合いでも乗れるのがたくさんあります。この際だからマウンテンバイクもどきのを。おっと、タイヤの空気がちょっと甘いですね。自分で空気圧を調整していざ出陣。って、どこに行けばいいのかしら?と、ちゃ〜んとあるんです。専用のマップが(雨でぐちゃぐちゃになって持って帰れませんでした(ーー;))。見所や道路までバッチリです。これなら極め付きの方向音痴のボクたちでも大丈夫です。ほんとに親切なこと。時間的にどうやっても全部は見て回れないので熟慮に熟慮を重ねて(いつになったら出発できのかなぁ)取りあえず「高松塚古墳」へ。

重たい雲が垂れ込めている飛鳥の空の下を颯爽と2台の自転車が・・・。走ってませんね約1台。駅前からの最初のだらだらの坂を手で押しています。坂を登りきって(というほどの坂でもないんですが)振り向いて絶望的になったボクの様子を想像してみてください。ま、本人はケロッとしているのが不幸中の幸いですが(使い方が違うかな?)
やっとたどりついた「高松塚古墳」。自転車は正解でした。車用の駐車場から目指す古墳までは、結構な上り坂です。まあ歩くのはそれそれでいいのでしょうが、せっかちなボクたちには自転車で歩道を駆け抜ける方が(また手で押していますがな!)合っているようです。

さて肝心の「高松塚古墳」は壁画で有名です。
写真集などで見たことはありますが、この目で是非とも見たいものでした。が、本尊?(の入り口)は金網フェンスで厳重に囲われていて、しかも入り口になっているところはでっかい錠前が訪問者を拒絶しています。ちょっとそこのおばさん!金網に登ってもあかんでしょーが!信じられないことに見学者の中には金網フェンスを登ろうとしたりこじ開けようとしている人がいます。「なによ!せっかく来たのに!」ですって。たのむわ。ほんまに。で、その本尊の隣にはちょとした建物があって中には壁画を復元したものが展示されています。なんだコピーか。なんて思って覗いてみると、その尊厳さに腰が抜けそうになりました。いえ、大げさではなくて本当に凄いんです。復元したのがこれならば、本物はどんなんだろうと想像を膨らませてしまいます。金網フェンスをこじ開けようしたオバタリアンの気持ちがわからないでもありません。中は撮影もできないのでリンクで勘弁していただきますが、「青龍」「白虎」「玄武」いずれも見事な色彩と圧倒的な迫りくるような(なんて言えばいいんだろ)その威厳というかパワーが時代を超えてボクたちに何かを訴えているように思えます。建物を出た後は、しばらく呆然としてしまいました。まったくこれは凄すぎます。これはひとつの宇宙と言ってもいいでしょう。ボクたちの先祖(古墳が作られたのは7〜9世紀らしい)ってのは、一体、どこからきたのか。そんな思いがよぎったりしました。

高松塚古墳

この中に壁画があります。フェンスを乗り越えてはいけませんよ、そこのオバさん!


さて、お次は「石舞台」。
地図を見ながらやっとのことでたどり着いたのは、観光バスの駐車場とお土産屋さんが一緒になったような広場でした。なんぢゃこりゃ?あ、ここは単なる車の駐車場でした。すんません。自転車を置いて道路からほんのちょっと入り込んで鳥居のような入り口をくぐると、突然とでっかい石が現れます。そう突然と、です。周辺は岩肌もないただの広場みたいな感じです。その広場にまったく不釣合いなでっかい石がどん!と置いてあります。

「石室」ということになっています。中に入ってみると石の隙間から空が見えます。なんでだろ〜?♪♪ なんという形をしているのでしょうか!?とてつもないデカイ石がたくさん積み上げられています。労災とかなかったのかなぁ?


おそらく初めてこれを見た人は誰がこんなところ(棚田のど真ん中)に、こんなでっかい石(総重量2300t)を持って来たんだろ?と思ったに違いありません(じゃまだなぁ、と思ったかどうかは定かではありません)。石は、いかにも「人工的」です。一体なんの目的でこんなでっかい石を置いたんでしょうか?蘇我氏の墓説とか諸説紛紛としているようですが、どれもイマイチな感じです。石の下にある空間も「石室」と解説がありますが、これもなんかなぁ。きっとボクたち現代人には想像もできないような「哲学」があったに違いありません。ここでも時空を超える「何か」がボクたちに訴えているように思えます。それにしても、この石の前で歌ってる人たちって、何者?(一説ではキツネがこの石の上で踊っていたのでこの名前がつけられたと。つまり彼らは・・・。)

明日香村を東西に横切る県道155線を挟んで川原寺と対峙するようにたたずむ寺院があります。仏頭山を背景にして白壁の築地塀を巡らした橘寺(たちばなでら)。太子建立の7寺の一つで、正式には仏頭山上宮皇院菩提寺といい、橘樹寺、橘尼寺とも。現在の寺地には、東面する四天王寺式伽藍配置の跡が残っています。しかし、橘寺の存在を示す最も古い文献は『日本書紀』で、680年(天武9)に橘尼寺で出火し10坊を失ったことが記録されているとか。この寺から出土する瓦は7世紀後半のものが多いとのことですが、7世紀前半に使われたとされる素弁蓮華門軒丸瓦も発見されていて、創建はその頃まで遡ると考えられているようです。

寺伝では、橘寺は聖徳太子(=厩戸皇子)出生の地と伝えています(そこのお方、眉に唾をつけてはいけません)。出生地とされる伝承では、この地に欽明天皇の別宮があり、太子は574年(敏達3)にここで誕生したと言われています。厩戸皇子は太子の本名(ということになっているよう)で、その名の由来は母の穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのみめみこ)が宮中の見回りの際にちょうど厩戸に来たところで産気づき太子を生んだため、とされているようです。
この出生譚は『日本書紀』に記されているもので、キリスト教の影響を示唆する歴史学者もいるようです。後世になって太子信仰が盛んになった時、太子を讃仰するあまりキリスト生誕になぞらえて作り上げられた逸話だってのもあるようです。ま、この手の話は世俗でもよくあることで。

聖徳太子がここの厩で生まれたとか。本堂の中も見学できます。
芙蓉の花が綺麗でした。
ま、とってつけたようなと言ってしまえばそれまでですが。そこはほれ、観光地ってことでご勘弁を。


二面岩(にめんいわ)。
これまた奇怪な岩なんですが、読んで字の如く表情の違う顔が二つ彫られています。どこにでもありそうな寺院に見えるこの橘寺の境内にあります。何度でも言ってしまいますけど、お寺の言い伝えでは、聖徳太子出生の地ということで。太子殿の南庭にある二面石は、猿石などと同じ時代のものでしょうか。かなり粗雑な作りのような気がしないでもありません。寺院が建てられたのが先か、二面岩が先か…。ずっと寺院に置かれていたからか、いつしか「善と悪の二面を表す」というような解釈が付加されたようです。

船石(さかふねいし)。
飛鳥に数ある石の中で最も謎の多い石と言われています。その名前の由来は、酒を造るためのものという説から付いた名前。しかし、その用途については実に様々な説があって、酒を造るためとか、薬を生成するためとか、季節を調べるものとか、吉凶を占うものとか、ただの飾り物である(笑)とか、様々な説があるんですが、まあ真実はまだ分からないようです。飛鳥にある巨石の中で、その用途について最も謎の多いミステリアスな巨石です。この丘に斉明天皇の大土木工事の跡らしい砂岩切石の石積みや、花崗岩の列が見つかっています。このあたりに、斉明天皇の両槻宮(ふたつきのみや)があったようです。2本のケヤキの宮という意味でしょうか…。実に謎めいた思わせぶりな名前ですね。

これって、本当になんために作られたんでしょうねぇ。

ボク的にはこの界隈全体が「庭園」っていう説に一票かな?


自転車での観光は、なかなか快適です。自分のペースで移動できるのがいいです。それと道を間違ってもすぐに軌道修正できます。え?MAPがあるのに道に迷うのかって?なめてはいけません。僕たちはそんじょそこらの方向音痴とはわけが違います。加えて、この界隈は「標識」というものがほとんどありません。いえ、厳密に言うと案内板みたいなものはあるんですが、目指す場所の近くになればなるほど目的の場所(遺跡、建物等)で道に迷うのです。どいうわけか。たとえばこの「亀石」。道路のあちこちには『亀石⇒』なんてのがあるんですが、このカメさんの近くに行くとそんな標識がなくなってしまうのです。まあ観光地ですから、人だかりのところに行けば何がしかは見られるのですが。でもよく考えるとこれはこれでいいのかも知れません。でっかい看板で(たとえばこの住宅地のどまんなかにある)「亀石〜!」なんてあると少なくとも景観は台無しでしょうね。そうぢゃなくてもこの界隈は遺跡だらけ。遺跡のフリーマケットみたいなところですから、もし、そんな看板の掲示を許すと街中は看板だらけになってしまうでしょう。このさいですから方向音痴を直す訓練だと思って歩きましょう。お互い。

さて、この「亀石」。
笑っちゃいけないのでしょうが笑っちゃいます。どう見ても「カメ」に見えますね。触ろうとしている人がたくさんいますが(右に注目!)、いくら頑丈そうな石だといっても、どっかのお寺のシンボルぢゃないんだからむやみやたらと触るのはどうかと思います。一応、遺跡とかなんだし。ち、ちょっとそこのおばさん!だめですよ!「カメ」にペンで書いちゃ!ったく。
ところで、こいつは何に使ったんでしょうかねぇ?一説には条里(7世紀ごろの区画整理)の境界線にあったということですが、こんなもんがゴロゴロしてたら、結構、じゃまだったりしなかったかなぁ。旱魃のときの雨乞いの神様ってのは、なんとなくいいですけど、魚でもいいような。実は「カメ」ぢゃないとか!?

実際に見てみると、思わず笑っちゃいます。ごめんなさい。
結構、でかいです。長いところで約3.6mとか。

丈二(12尺)か。なんか長さにも意味があるんでしょうかねぇ。


このカメさんは住宅街と田んぼの中にあります。観光客は田んぼの畦道のような細い道をテクテクと歩くことになります。週末ともなると人が大勢いますので自転車は乗って走ることはできません。この敷地の三方には普通のお家があります。右隣のお家にの玄関前には何故か自動販売機があります。なるほど。

飛鳥板葺宮跡(あすかいたぶきのみやあと)
645年ってんですから、ずいぶんと昔の話ですが(^_^;)、大化の改新(憶えてますか?(^_^;))。中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)や藤原鎌足(ふじわらのかまたり)が当時、大きな権力を有していた蘇我氏を暗殺した場所(ということになっています)。まあこういう年号や伝承は子供のころに授業で無理やり覚えさせられましたが、そういうときって興味なんかぜんぜん湧かないんではないでしょうか。暫くしてこうして歳をとって人並みに歴史書なぞを読んだりすると好奇心みたいなもんがむくむくと頭を持ち上げたりするようです。今更ながら学校教育なんてもんを改めて考えさせられてしまいますね。それにしてもこの飛鳥京をはじめとした当時の権力闘争の争奪戦のようすを想像してみるのもなかなか感慨深い一興かと思ったりします。ま、所詮、内ゲバの跡地なんですが。

これがまた、探すのに一苦労。道より下にあるし目印ってものがない。自転車を立ってこぎながら探しました。最初は単なる田んぼかと思った。若い二人組のカップルもボク達のあとを自転車で尾行していました。(^_^;)


すっかりお腹もすいたけど、こんな田んぼの真中では気の効いたお店なんかあるわけがないです。おまけに空はどんよりとしてきて、雨模様。他にたくさん行きたいところがあったのですが、まあ次回にしようと。で、最後の遺跡。水落遺跡。ここ飛鳥の発掘でも特別な遺跡だと聞いています。というのは、この界隈で発掘されるものは石やら岩やら要するに1000年以上経ってもあまり変化しないものがほとんどのはずで、たいていは「なんやらの宮の跡」とかを想像することになるでしょう。が、これはちょっと様子が違っていたようで、こりゃなんじゃ!?ってもんだったようです。これだけでは、普通は建物の土台だと思っても仕方がないでしょう。それが、なんと「水時計」の跡ってんですから。発見してこれがナニモノなのかわかったときは興奮したでしょうねぇ。みなさん。で、解説によりますと。

日本書紀によれば、斉明6年(660年)5月「皇太子が初め漏れ剋を造り、人々に時刻を知らせた。」とある。水落遺跡が後の天智天皇、中大兄皇子がわが国で初めて造らせた水時計の跡にあたる。周囲に貼石を巡らせた基壇を設け、地中に礎石を埋め込みその上に堀立て柱をたてた非常に堅固な二階建ての建物の地下に木樋や銅の管を配置して水時計を動かす水を取り込んでいる。一階には水時計、二階には都中に時を告げる鐘や時刻の補正をするための天文観測の装置が置かれていたのだろう。(「飛鳥資料館」

まったく、発掘とかはこれだからやめられないんでしょうねぇ。(^_^;)

水落遺跡。
でっかい水時計だそうです。元祖は中国製。このころからオリジナルなものを自らのために改良するっていう技術は長けていたようです。


さて今回はこれでおしまいです。
午後からしゃかりきになって自転車を転がしたのに、たったこれだけしか見ることができませんでした。まったく飛鳥は時間をやたらと食べるところです。いっくら時間があっても足りません。やはり日帰りってのは無理があるようです。本来ならば2泊3日ぐらいは滞在したい場所です。