天勾践を空しゅうする莫れ tenkosen
これは昔、私達が小学校6年生の時に唱歌の時間に習った、尋常小学唱歌(巻6)の児島高徳の一節である。いった
い何のことか訳も分からないまま、語呂がいいので歌っていたが、今頃になってやっと分かってきた。全文を書くと
次のようになる。
児島高徳 尋常小学唱歌(巻六) 大正3年6月
船坂山や杉坂と みあと慕いて院の庄
微衷(びちゅう)をいかで聞こえんと
桜の幹に十字の詩 注)1
「天勾践(こうせん)を空しゅうする莫れ
時に范蠡(はんれい)なきにしも非(あら)ず
御心(みこころ)ならぬいでましに
御袖露けき朝戸出に
誦(ずん)じて笑(え)ますかしこさよ
桜の幹の十字の詩
天勾践を空しゅうする莫れ
時に范蠡(はんれい)無きにしも非(あら)ず」
注1) 太平記(四)
然るべき隙も無かりければ、君の御座ある御宿の庭に大なる桜木有りける
を、押削りて大文字に、一句の詩をぞ書付けたりける。
『 天莫空勾践 時非無笵蠡 』
朝になってこの桜の木に彫られた漢詩を発見した兵士は、何と書いてあるのか解せず
、が騒がしいために、なにごとかと仔細を聞かれた 後醍醐天皇は、この詩を見られて
すぐに意味を理解されたという。詩を誦じて微笑まれるということは、中国の歴史に
精通されていて、呉越の覇権争いの故事、勾践や范蠡を熟知されておられたからと思う。
当時の上流社会の教養、学問はかなり高かったということであろう。つまり天は越王勾践
を破滅させてしまうようなことをなさらない。必ず范蠡のような忠臣が現れて勾践を助け
るものである。後醍醐天皇の場合も范蠡のような忠臣が現れてお助けするであろう。それま
でしばしお待ちくださいと言う意味である。
范蠡
児島高徳は鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて活躍した備前出身の武将で、太平記に登場する。元弘の乱に隠岐に
流される後醍醐天皇を、途中で奪おうと船坂山において天皇護送団を強襲して失敗する。高徳は播磨・美作国境の杉
坂まで追うものの、その時既に天皇一行は院の庄附近へたっしており、完全な作戦ミスで軍勢は雲散霧消してしまった。その際、
高徳一人が天皇の奪還をあきらめず、夜になって宿舎に忍び込むが、警備の厳しさに救出をあきらめ、せめて自分が
来たことをお知らせするためいずれお助けに来るので、それまで望みをもたれるようこの中国の故事を桜の幹に書き残した。
児島島高徳の出自に関しては後鳥羽上皇後裔説、宇多天皇後裔説などあるが、太平記四十巻の著者児島法師と同一人
物とする説もあり、一武士である児島高徳に関連する記述の内容が余りにも詳細、且つ広範囲に亘
っていることから太平記の著者の一人と推定された。
太平記は南北朝を舞台に、後醍醐天皇の即位から鎌倉幕府の滅亡を描いた第一部(巻1〜11)、
建武の新政とその崩壊後の南北朝分裂から後醍醐天皇の崩御までが描かれた第二部(巻12〜21)、
南朝方の怨霊の跋扈による足利幕府内部の混乱を描いた第三部(巻23〜40)からなる。1318年〜
1368年の約50間を書く軍紀物語である。
越王勾践
太平記第二巻「俊基朝臣再び関東下向の事」の段。〈実はこれも昔の中学校の教科書に出ていた。〉荘重な
七五調の、絢爛華麗なリズムにのせて、優雅な韻を踏みながら、ひたひたと迫り来る哀切さに彩られた道行き文の最高傑
作であろう。
【 落花の雪に踏み迷う 交野の春の桜狩り、 紅葉の錦着て帰る 嵐の山の秋の暮れ、
一夜を明かすほどだにも 旅ねとなればもの憂きに、 恩愛の契り浅からぬ 我が故郷の妻子をば
行く末も知らず思いおき 年久しくも住み馴れし 九重の帝都をば 今を限りと顧みて
思わぬ旅に出でたまう 心の中ぞ哀れなる ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・】
は私の好きな七五調の道行き名文である。野の春の桜と、嵐山の秋の紅葉を対比することからはじまる。京都の南の交
野と、北にある嵐山との対比でもあるが、この対句には、それぞれに原典があるうである。交野の桜のほうは、新古
今和歌集巻二、藤原俊成の歌「またや見ん かたのの御野(みの)の桜狩(さくらがり)花の雪散る春のあけぼの」
嵐山の紅葉の方は、拾遺和歌集巻三、藤原公任の歌「朝まだき 嵐の山の寒ければ 紅葉の錦きぬ人ぞなき」いずれ
の歌も技巧を尽くした歌である。俊成の歌の「かたの」という語は、「再び見ることは難しい(またや見ん)」の
「難(かた)し」と、地名の「交野」をかけた掛詞である。公任の歌の「錦」と言う語は、紅葉の形容と、衣服の錦
の両方の意味を持ち、「きぬ」は「着ぬ」と「絹」の掛詞である。道行文の名文はまた、名歌とされる歌を下敷きに
しているのであった。更につづけて
【 憂(うき)をば留(と)めぬ逢坂(おおさか)の 関の清水に袖濡れて 末は山路と打出(うちで)
の浜沖を遙かに見渡せば 塩ならぬ海に漕がれ行く 身を浮舟(うきふね)の浮き沈み 駒も轟
(とどろ)と踏み鳴らす 瀬田(せた)の長橋うち渡り 行向(いきこう)人に 近(おう=逢う)江路や
世の憂ね野(=うねの)に鳴く鶴も 子を思うかと哀れなり・・・・・・・・ 】
【時雨(しぐれ)もいたく漏り山(もりやま=守山)の 木の下露に袖ぬれて 風に露散る篠原(しのはら)や
篠分くる道を過ぎ行けば、 鏡山(かがみやま)は有るとても 涙に曇りて見え分かず
物を思えば夜の間(よのま)にも 老い蘇(おいそ)の森の下草に 駒を止めて顧みる
故郷を雲やへ隔つらん・・・・・・・・】 は私の好きな七五調の道行名文である。又、
別項目で述べてみ たい。
★『 臥薪嘗胆いくとせぞ 会稽の恥今ここに そそいで凱歌を挙げんかな・・』
これも太平洋戦争の前の中学時代の応援歌である。ここにも呉越の戦いに由来する故事成語が使われている。
日本の文化、歴史、教養 などに中国の影響は大きく、切っても切 れない密接な関係があると思われる。
呉越の物語は中国春秋戦国時代の覇権争いを描いたものである。紀元前500年頃、中国春秋時代に、長江の下流、
今の浙江省あたりに越という国があり、呉(今の江蘇省あたり蘇州)と熾烈な戦いを
くりひろげていた。そんな時に越の勾践が新しい王になった。
王が替わる時が攻めるチャンスだと思った呉の闔閭(こうりょ)は越に攻め込んだが、
越の宰相范蠡の奇襲作戦によって呉は破れて、闔閭は負傷する。その傷がもとで命を落
として「この恨みを一生わすれる
な」と言い残した。夫差(呉王)はいつかきっと復讐すると固く誓い、父が殺された恨み
呉王夫差
を忘れないため、積み重ねた薪の上に寝て、毎日その痛みに耐えいた。さらに人々が出入りするたびに、「夫差
よ、お前は父が越にやられたのを忘れたか」という言葉を挨拶がわりに言わせた。数年後、今度は夫差が夫椒山
の戦いで越を破り恥をそそいだ。越の勾践は会稽山で呉軍に囲まれ、屈辱的な降伏をした。呉の宰相伍子胥(ごし
しょ)は絶対許すべからずと進言するが、越には殆ど力が残っていないと感じた夫差(呉 王)は勾践(越王)
を助けることにした。勾践は降伏して から、屈辱的な敗戦の恥を忘れなかった。朝夕や食
事の時には必ず獣の肝をなめて、その苦い味をかみし「お前は会稽の恥じを忘れたか」と自
分に言い聞かせた。また越は呉 に多大なる贈り物をするのである。50人の美女まで送り込んだ。
夫差は西施のために八景を築き、その中で共に遊んだ。それぞれの風景の中には所
々に席が設けられ、優雅な宴が催された 長年の宿敵であった越王の勾践のことも
すっかり忘れてしまう。因みに西施は中国四大美人の一人で、 虞美人・楊貴妃・
西 施 王昭君と西施が中国四大美人であるが、美貌が故に国とともに滅ぶ道を歩んでしま
った不幸な生涯をもつことが共通である。日本でも松尾芭蕉の句に
「象潟や 雨に西施が ねぶの花」 がある。
★象潟: 秋田県にかほ市にあり、江戸時代までは九十九島、八十八潟が景勝地となり
「東の松島、西の象潟」と呼ばれ、松尾芭蕉の奥の細道(1689年)でも、“松島は笑うが
ごとく、象潟は憾むがごとし”と評された。1804年の象潟地震で海底が隆起し、陸地化して
今では水田の中に元々島であった小山が点々と存在するような場所になっている。
虞美人・楊貴妃・王昭君と西施が中国四大美人であるが、美貌が故に国とともに
ねむの花
滅ぶ道を歩んでしまった不幸な生涯をもつことが共通である。一方方越は間者を放って、呉の君臣の仲を裂き、
ついに夫差は伍子胥を自殺に追い込んでしまう。呉王夫差は越を討ってから強国となり、中原に進出して覇者
たらんとした。復讐の機会を待っていた越は、呉王夫差が兵をひきいて都を留守にしたのをみのがさなかった。
精兵をくりだして呉都を討ち、太子を戦死させた。
その後も呉越の戦いは続き三年の戦いの後、呉王夫差は姑蘇山に包囲され、降伏を願いでたが、越の宰相范蠡はそれを許さ
なかった。夫差は自殺して、呉は滅亡した。勾践はその勢いを買って中原に進出して、諸侯を会同し、覇者となった。范蠡
は20年に渡って勾践を補佐して、彼の会稽の恥をそそいで、それが達成されるとさっさと官を辞して斉に去った。范蠡は立ち
去るとき「越王の人柄は頸長く嘴は鳥のように尖っている。互いに艱難を共にすることはできるが、互いに楽しみを共にす
ることのできない人である。」と言ったとわれている。この事から
【 飛鳥尽きて、良弓蔵(おさ)められ、狡兎死して、走狗煮らる。】
という諺になった。
その後范蠡は斉から陶という地に移り、そこで彼は陶朱公と名乗り、実業家として巨万の富を築いた。この話しが元になっ
て、富裕のことを【 陶朱の富 】言うようになった。これはまた、魯の猗頓(いとん)という同じく莫大な財産をなした
人と並べてお金持ちのことを【 陶朱猗頓 】“とうしゅいとん”とも言った。
【 呉越同舟 】と言う故事成語は「孫子の第十一篇九地」が出典である。「孫子」は孫武によって著された書物で、彼は
夫差の父、闔閭(こうりょ)に仕えた。この篇に書かれていることを要約すると次のようになる。「日頃、憎しみあってい
る呉と越の人が同じ船に乗り合わせていたとする。もし大風が起これば、日頃の憎悪も忘れ、手を取り合って船を助けよう
とするだろう。軍を操るのに巧みな人は、これと同じように軍隊を戦うしかない状況におくのである。」これが呉越同舟の
意味で、単に仲の悪い人たちがどこかで同席するだけでは、意味としては不十分である。彼らが助け合って、初めて本来の
呉越同舟になるわけである。即ち呉王も越王も命だけは助けあっている。
【 臥薪嘗胆 】は夫差が父が殺された恨みを忘れぬために、毎日薪の上で寝起きしたこと
と、勾践が敗戦の屈辱を忘れぬため、肝を嘗めたという故事に基づいている。出典は十八史略
である。
【 会稽の恥 】は越の勾践が会稽山に、呉軍に囲まれて降伏したことによる。
【 死屍に鞭打つ 】或いは【 死人に鞭打つ 】は夫差の宰相であった伍子胥(ごししょ)
越王勾践嘗胆 は父と兄を殺した 楚の平王への復讐として、平王の墓をあばき、その死体をひきずりだし、
鞭で何度も打ち据えた。この伍子胥のあまりにも残忍な行為を見かね、彼の友人が非難すると、伍子胥は「日暮れて道 遠
し 」と答えた「自分は老いてしまった。やりたいことはたくさんあのに残された時間は少ない。天道に従って悠長に構えて
いられないのだ。」ここから期することは大きいのに、老いて時間がなくなることを【 日暮れて道遠し 】と言うようになった。