私が私を好きな訳



泣く事



夫が亡くなったとき、


私の心にあるのは



「私と娘達が可哀想・・・・」



この気持ちが一番先にあったと思う。



そして、次にあったのは



「私のせいだ、私の失敗だ・・・・」



更に次には 



「これからどうなるんだろう・・・・」





亡くなった夫が可哀想 という気持ちは 悪いがほんの少しだった。




自分の置かれた環境や 今後の生活や 


取り残されてしまった自分の気持ちを整理していくのに精一杯だったから。




夫に対して、ごめんなさい という気持ちは


心を押しつぶすほどに夜となく昼となく襲ってきたけれど



夫が可哀想 という気持ちは ほとんど無かったと言ってもいい。


だって のこされた私達の方が もっともっと可哀想だと思ったから。





子供さんが亡くなられた方たちとの決定的な違いはここかも知れない。




夫を亡くすというのは、


すぐに 「生活を維持する責任」 という事実が襲ってくる事だった。


奥さんが亡くなられた方も似たような感じだろうと思う。





夫が亡くなって、4年目位まで、私はしょっちゅう泣いていた。


車の中で。


お風呂の中で。


子供が寝静まった後に。





でも、その涙は「昔に戻りたい」


「気をつけておけばよかった」


「一人の生活は嫌だ」


「こんな責任の重さ、耐えられない」 こんな感じ。




全部 主語は 「私は」



つまり、私は私の悲しさの為に 泣き続けていたんだと思う。





逆に「彼」を主語にしてみた時、出てくる言葉は



「居なくなってしまった」


「置いていってしまった」




こんな感じたったと思う。






更に言えば 「ほったらかしにした」とか「無責任だった」とか



故人を責める言葉ばかりが 流れ出してくるのが止められなかった。



事故とか、病死とかと違って、自死という以上 


意思を持ってこの状態を作り出されたわけだから、


理不尽な恨みが出てきたのも 仕方ない事かも知れない。





でも、この言葉を口にすることはいけない事だった。


こんな気持ちを持つことさえ、許されないことだ と思っていた。




そして、自分を責める事で、そんな気持ちを押しつぶす。



自分を責めてさえいれば 自分を最低な人間にしてしまえば


全ての理屈はちゃんと通じるから。




「私が最低な人間だったから、彼は死んでしまった」と。



周囲の人も、そして何より私自身も それで安心できたから。






・・・でもね、人間は理屈じゃ生きてはいけない。


・・・・理屈がいくら通じていても、感情が悲鳴を上げる。






 
私はそんなにひどい人間だったのでしょうか?



私のしてきた事は それほどに罪深い事ばかりだったのでしょうか?





・・・・・・・・・・・・





こんな気持ちがあることを、素直に認める事ができたとき、


なんとなく、周囲を静かに見る事ができてきたように思う。






車を運転しながら、大泣きしていた頃、漠然と


「でも、この涙は 私の為の涙なんだ・・・


 まだ、私は自分の為にしか泣けないんだ。


 いつか 純粋に彼の為にだけ泣く事ができたら、


 きっとそれが 私にとっての 立ち直った時期なのかも知れない」


そんなことを 考えていた。






でも、そんな境地に至る為には、


まず 自分自身の為に泣く事が終わりにならなきゃいけなかった。






それから何年か経って


裁判日記にも書いてある通り、私は 弁護士さん達の手も借りて


最近、やっと 彼のためだけに泣く事ができた・・・。





彼の辛さや悲しさに やっとやっと 寄り添う事ができた気がする。


可哀想で、可哀想で、 ・・・・とても悲しい。





だけど、同時にここまでの道のりの深さ、尊さに 不思議な感覚もあることも


時々感じている。


別に私が尊いわけじゃない。


私の前に敷かれた道は 尊い道だったのだと 今は思えるのだ。







お子さんを亡くされた人たちは、生活に追われることはないかもしれない。


でも、その悲しみの深さは、私の想像を絶するもののような気がする。




私は、故人を心の底から恨む事も自分に許し そのおかげで前に進む事もできた。


故人の事を忘れてしまう事さえ、自分に許し そして前を見つめる事ができた。





恨みよりも、深い愛情、それから忘れる事などできない思い出。


私以上に 深く尊い道のりを 歩んでいる人たちなのかも知れないと思う。






親を亡くした人、兄弟をなくした人・・・


夫を妻を そして 子供を亡くした人・・・


それぞれの立場が違えば 掛かる責任も、想いの深さもそれぞれ違ってくるのは


当然といえば当然だろうな。




だけど、互いの思いと存在をを知ることが出来たのは


私にとって 本当に本当に 不思議な出来事だった。



そして、そこが 私のもう一つのスタートラインだったのかも知れない。



もう、今の自分を哀れんで泣く事は無いだろうと思う。


昔の自分を思い出したり、彼の事を想って泣く事はあっても。



・・・・・それから、人の想いに寄り添って泣ける自分のいる事に、


私は やっと 気づいた気がする