そして裁判のこと 6



「幸せ」というものは 一体何なのか?



何をもって「幸せだ」と言い切る事が出来るのか?



裁判の為に 時間をかいくぐり 走り回る私の脳裏では


何時とも無く こんな想いが浮いてきました。



お金が沢山あること?


社会的に認められる地位があること?


他人に認められること?




いいや そうじゃない。


違うよ。 きっとそうじゃない・・・・




それらは あればあったで邪魔にもならず 便利なものだと思うけど


もっと もっと 違うはずなんだ。



それらは きっと 道具でしかないんだと思うよ・・・。





自死で夫を亡くした女が 裁判で勝てば 多少なりとも

社会に対して 顔向けが出来るんじゃないか とか



お金が入れば 子供達にだって人並み以上の生活をさせてやれるし

父親が自死したという現実を フォローしてやれるんじゃないかとか



5年前 裁判をしようと決めた時



じーちゃんと 私の頭で こんな想いが無かったと言えばうそになります。



それほどまでに 「自死」という言葉は世間に対して顔向けできない事実でした。




だけど


だけどね 


よく 考えて。


何の為に 私は そうしたいの?


一体 誰に顔向けできないの?


世間?


世間の価値観?



でもね 世間が 私と子供達にどれだけの事をしてくれた?



現実に生きているのは 私たちじゃないの。





世間の為に 私は生きているの?



世間の価値観にあわせて生きて行かなくちゃならないの?





当然 社会通念は 必要なものだよ。


これなくして 協調した社会なんて出来やしない。



だけど 私は 世間に対して 何を求めていたの?



世間からどんな評価を受けたくて がんばっているの?


人に迷惑をかけているわけじゃない。


それだけで十分じゃないの?



それだけで 社会に対する責任は 十分に果たしているんじゃないの?



余力があれば それ以上の頑張りだって出来るだろうけど


今の 私にそれ以上を 誰も求めちゃいないじゃない。


そして 今の私には それだけで精一杯じゃないの。










世間じゃない



私 なんだ。






世間の為に 幸せを演じる必要はないんだよ。


私は


私自身の為に 幸せでありたい。







示談の話は 後になって考えれば 


何をもって 私は幸せでいられるのか と


自分自身に問いかけるきっかけにもなりました。





裁判の 勝ち負けを人生の全てにする事



勝てば きっと幸せになれると 信じきる事










でも 私には どうしても そうは思えませんでした。



じゃ 何が必要なんだろう と。



何度も 何度も問いかけ 思索しながら その年は暮れました。