ここでは、私ひさしと彼女との思い出をランダムに並べていき
たいと考えています。

 彼女と私は、1962年の同じ年に、岐阜県の東濃地方にある
多治見と土岐という隣り同士の人口7〜10万人の小さな街に
生まれ育ちました。
小学6年生の時に、名古屋の私立中学校を目指す
進学塾で出会い、20歳の時にその塾の同窓会で再会し
紆余曲折を経て、4年間つきあった後、1988年の春に25歳で
結婚しました。

 結婚後は私の仕事の関係で、関東で二人っきりの生活を
13年間送らせていただきました。
趣味もあまり合わず、性格も正反対のケンカの多い二人で
したが、どこか共通する感性があり、子供がいなかったせいか、
ママゴトの様な生活を送らせてもらいました。
二人の間柄は、お互い恋人のような時もあれば、
父と娘のような時もあり、母と子のような時もありました。
いずれにしても、私達二人はお互いに大きく依存しあい、
心安らぐ sweet home を形成していました。
そして、愚かな事に私は、この温まる時間が果てしなく
永遠に続くような気になっていました。
この世界に永遠などというものはなく、いつか別れが来る
事は解ってはいましたが、こんなに突然に、こんなにも早く
訪れようとは考えてもみませんでした。
私達は人生には限りのある事は解っていましたので、
時間のある時は、よく旅をしました。というより、彼女によく
連れていってもらいました。
でも、もっともっと彼女にこの世界にいてほしっかたし、
もっともっと彼女と共に過ごしたかったし、旅をしたかったし、
思い出を作りたかった。
それを後悔をしても、限りはありませんが・・・。

 私は彼女と出会ったことで、約18年間、彼女から
色々な素敵な楽しい思い出をたくさんもらいました。
私はそれを彼女に感謝すると共に、ここに並べたいと思います。







    第1葉 山本塾

 岐阜県の多治見にある進学塾『山本塾』。
ここが私達二人が初めて出会った場所です。この塾は
小学6年生の一年間を、土日も休まず、ほぼ毎日通い
名古屋の私立中学校を目指すスパルタ塾でした。
私もテストで0点を取ったり、宿題を忘れ『お帰り』(塾を強制退去
させられる事)をくらって、泣いて帰った事もありました。
スパルタ塾でしたが、山本先生のキャラクターもあり、とっても
楽しく勉強させて頂きました。クラスは40名程の1クラスしかなく
毎日を、学校が終わってから約3時間。休みの日は昼、夕の2食を
持参しての1日中、勉強していた時もありました。
ここで何回か席替えがあったのですが、その内の1回、
真美ちゃんと隣同士になった事が数ヶ月ありました。
人生に『もし』という場面はよくありますが、もしあの時、
山本先生が私達二人を隣同士の席にする事が
なければ、二人は付き合ってはいなかったと思います。
ここでの『もし』は、本当に大きな分岐点になったと思います。

 隣同士座った私達ですが、私は彼女によく、いじめられた
思い出があります。机は長机だったのですが、私が
彼女の方によく肘を出すせいか、彼女が勝手に境界線を
決めてしまい、その見えない境界線を私の消しゴムなりが、
越えてしまうと、没収されてしまったりして、今から思うと
もて遊ばれていたという感じです。
また、テストの採点をお互い答案を交換しあい、○・×を付ける
のですが、私がまん丸い綺麗な○が好きで付けていたの
に対して、彼女は楕円形の○を付けていて、わたしの答案
なので、綺麗な○を付けてほしいと頼んでも、これ見よがしに
さらにひどい楕円を付けられた思い出もあります。
あとは、ことわざのプリントで、『果報はねて待て』という
書き方がしてあって、これは果報は『はねて待て』か
『ねて待て』かを、二人で相談し、結局『はねて待て』として、
彼女が読んだ時に笑われた事や、
『ちよがみ買いに 行く月夜かな』という歌を、
私が『ちりがみ買いに 行く月夜かな』と書いて、
彼女が先生にチックた事などの数々の思い出があります。

 その後、二人はそれぞれ違う名古屋の女子校、男子校に
通い、会って話をする事など全然なっかたのですが、
実はその後も、彼女にもて遊ばれたせいか、波長が合った
のか、私は時々彼女の事が、妙に気になっていました。
風の噂で、彼女が誰々にチョコをあげたという話を聞くと
内心寂しかったのを覚えています。

 大学2年から3年の春休みに、塾の同窓会で再会をし
私は内心『ニコニコ』で、彼女に 社交辞令で「変わってね」と
声をかけました。
彼女は 「どおー変わっての?」と笑って聞くので、
「もちろん、きれいに」と嫌われないように、調子のいい事を
言い、また、彼女が持っていたバックもちょっとぶりっ子しすぎ
ではと思いつつも、「それ、カワイイね。」と誉めたのを
覚えています。

 そのあと私が 「また、電話してもいい?」と聞いたところ、
OKの返事をもらい、さっそく家に帰り、テレビの下のラックの
奥にあった黄ばんで少しボロボロになった山本塾の連絡網の
紙を取りだし番号をチェックしました。この時ばかりは、もう8年も
なろうかというのに、いまだにこの連絡網を捨てずに置いてて
くれたズボラ?な親に感謝しました。
 
 その数日後、誰もいない実家の会社の事務所より、バクバク
しながら電話をかけたのを昨日のように思い出します。







     第2葉 山本先生、ありがとうございました。

 真美ちゃんの一周忌の法要を終えて間もない2002年1/29に、
彼女と私の縁結びのキューピットであり、彼女共々、本当に
お世話になった山本先生が他界されたとの連絡を受けました。
享年78歳でした。原因は脳梗塞との事でしたが、急な進行で、
寝たきりだったわけではなく、最後まで身のまわりの事は
自分で出来ていたとの事でした。先生は恐らく寝たっきりに
なったり、下の世話を他の人にしてもらう事などは、絶対に嫌
だと考えていた思います。他界されたのは、とても悲しいですが、
そういう意味では、先生の美学を最後まで貫いた見事な去り方
だったと思います。山本先生のあの眠っている様な安らかな
きれいな顔は、先生が自分の美学を最後まで通し満足して
自分の生涯を終えた証だと思います。
 真美ちゃんの場合も、同じ事が言えると思います。
彼女にとっては、自分の体にメスを入れる事や抗癌剤で髪の毛
が全部抜けてしまう事など、彼女なりの美学からは離れたもの
だったと思います。でも彼女は、それを悩みながらも、受け入れて
きました。しかし、最後の最後は『旅立つ時は家から』という
彼女の美学を譲らず通しきった、見事な去り方だったと
思います。亡くなる一週間前に『家に帰る』と言ったあの時、
既に彼女は自分の命があと僅かだと完全に悟っていた
と思います。

 先生の告別式の時に奥さんに『真美ちゃんに連れていかれ
ちゃたかしら。』と言われた時は、時期が近いだけに『すいません、
本当に申し訳ないです。』としか言えませんでした。確かに、
手のしびれの症状が出たのが、彼女が旅立った1/20で、
地元の病院に運ばれたのが告別式のあった1/22で、
他界されたのも、彼女が最後に入院していた病院という事を
考えると、本当にそんな気もします。でも今頃きっと向こうで、
二人で楽しくお話しをしている事と思います。

 税理士の免許を持ちながら、小学校の教員をやられていた
山本先生は35歳の時に教員を辞められ、名古屋の私立
中学校を目指す進学塾『山本塾』を始められました。
そして以後37年間にわたって千数百人の生徒さんを指導され
てきました。
その塾は小学6年生の一クラスしかなく、土日も休まず毎日
あり、厳しい中にも、楽しさもあった塾でした。そこは決して
営利目的だけではない先生の教育に対する熱意や考え方や
責任感、そして先生の生き方を具現化する場でもあったと
思います。現に私にとっては、そこでの体験のインパクトが
強かった為か、小学校の6年間よりも、そこでの1年間の方が
今でも心のより所となっています。他の多くの人達もそう感じて
いると思います。
 私の目から見た先生は、髪をオールバックにし、とてっも
ダンディーで、声も声優のように渋く張りのある方でした。
そしてお酒が好きで、ウイスキーをストレートでグイグイと飲んで
しまう豪快さもありました。とにかく先生としての威厳があり、
時に木刀を持っている事もあったのか、子供心に『侍』という
イメージを感じていました。
 先生は奥さんと共に、二人の息子さんを立派に育てられ、
千数百人の生徒さんに無形の物を数多く残して下さいました。
それは先生が他界されても、色々な形で脈々と受け継がれて
いる事と思います。それは無形だからこそ壊れる事もなく、
山本先生は、これからも生きていく事と思います。そしてそれが
色々な場所で、現時点でさえも、また数年の時を経てからも、
素晴らしいものを生む一つの原動力になっていくと思います。
その事は、山本先生の人生が本当にとっても素晴らしいもので
あったという事を意味すると考えています。

 私にとっては1988年に結婚前のご報告に真美ちゃんと
一緒に先生のお宅にお邪魔させていただいた事と、
真美ちゃんの事が一段落した2001年の2月にお邪魔させて
いただいた事が、いい思い出となっています。特に後者の方
では6時間程の長きに渡り、先生ご夫妻と色々なお話が出来た
のを、大変嬉しく思っています。その際、真美ちゃんの事は
もとより、先生の受けられた大手術の事から、息子さんの事、
息子さんのお嫁さんの事、お孫さんの事を、嬉しそうに面白くも
愛情を込めてお話していただいたのが印象に残っています。
そして『自分の残された人生は燃えかすの様なもので、どうでも
いいけどけど、真美ちゃんはこれからという時だったから、
本当に残念やったね。』と言ってもらえたのも印象に残っています。
 これは私事ですが、私と山本先生とは字は違いますが、同じ
『ひさし』という名前である事や、私の兄の名前に先生の名前と
同じ字が入っている事や、真美ちゃんとの出会い事など、
結びつく点を感じます。これからの人生において、迷う時、私は
先生の生き方を参考にしていきたいと思います。

 最後に、山本先生との出会いがあったからこそ、真美ちゃん
とも出会え、多くの友達とも出会え、そしていい思い出もたくさん
もらえ、現在の私があると思います。(ただあの時あれだけ
勉強したのに、今の自分は何?という反省は多くあります。)
それは私だけでなく、あの塾を経験した皆が思っている事だと
思います。
山本先生、本当にありがとうございました。
そして本当にご苦労様でした。







      第3葉 赤い傘の似合う女の子

 赤、真紅、そして、もも色、彼女のイメージを色彩に喩えると
浮かんでくる色です。実際に彼女はそれら明るい色彩をした
ものを好んで身につけていました。理由は彼女自身が映える
から?それとも繊細で落ち込みやすかった彼女を少しでも
励ましてくれるから?その事はよく分かりませんが、それらが
似合っていた事は確かです。

 映画『風と共に去りぬ』のスカーレット・オハラ。彼女のイメージも
赤でしたし、深紅のドレス姿が印象的でした。
真美ちゃん自身もビビアン・リー演じるスカーレットのキャラクターに
一種の憧れを抱いていたので、そこからきているのかも
しれません。
 
 アルバムを見ると傘をさした彼女の写真が幾つかあり、それらは
すべて赤い傘なのです。ひいき目なのですが、とってもよく
似合っていると思います。



1985.06.22 上高地 大正池にて。
私が大学生だった頃、ちょっと足を伸ばして上高地に行った時の
ものです。



1986.04 東京ディズニーランドにて。
同じく私が大学生だった頃、飛び石ゴールデンウィークの谷間の
平日に、学校を休んで行ったディズニーランドでの一枚です。
あいにくの雨と平日のせいもあって、園内は空いていて、
ほとんど待ち時間なく、アトラクションを楽しめました。そして
閉館間近にスペースマウンテンを4回連続で、貸しきり状態で
乗り倒した事を覚えています。



1986.12 イギリスにて。
彼女がお友達と二人でイギリスに行った時のものです。
毛糸の服が可愛いですね。



1987.11 金沢 兼六園にて。
金沢へ小旅行した時のものです。この時は私が風邪でダウン。
彼女が市場で甘海老をたくさん買ってきてくれたけど、それさえも
食べれず、迷惑をかけました。
あと、御寿司屋さんに入った時、板前の御兄さんが彼女の
方ばっかりを見て話す事、話す事。内容の一つにヒラメの
えんがわの事があり、あとあとになっても、それは二人にとっての
笑える話題となって残りました。







        第4葉 赤い帽子の似合う女の子

 私達は夏、正月、ゴールデンウィークなど長期の休みが取れる
時は、決して見逃す事なく必ず海外旅行をしていました。
最初の頃は、ニューヨークへの探検や散策、カナダ・スイスへの
スキー合宿、そしてハワイへの定番旅行などでした。
しかし、28歳の時に私がスキューバ・ダイビングに目覚めてからは
ほとんど毎回、南の島関係となってしまいました。
彼女はどちらかというと水関係は得意の方ではなく、日焼け
なども気にする方でしたが、私のわがままに付き合ってくれました。
でも、私が潜りに目覚めるきっかけを作ったのは、彼女が連れて
いってくれたフィジーだったのです。
それはさておき、以後訪れる機会の多くなった南の島に彼女が
必ず持参したものが、日焼け対策のひさしの大きい赤い帽子でした。
服もリゾートらしく熱帯魚や南国鳥のようにカラフルでしたが、
赤い帽子はとってもお似合いで、可愛かったです。
またまた、ひいき目ですが。

 
1991年9月 真美ちゃんが彼女の母親と私の母親と私の3人を
カリブ海のバハマ諸島に連れて行ってくれた時のものです。
私が潜っている間に母親たちを海洋公園に連れて行ってくれました。
私は皆が寝ている真夜中にホテルのカジノでおぼれていましたっけ。
4人でトレジャーアイランドという歩いて一周5分程度の無人島ツアー
行きましたよね。海が本当にきれいでした。


1992年9月 ニューカレドニアの埠頭にて。
           遠足に出かける小学生みたい。


                          
同じくニューカレドニアの首都ヌメア市内にて。
真美ちゃんの大好きな子犬を発見し、ツーショット。
ニューカレドニアはフランスの植民地であったので、
フランス情緒が感じられました。でも、この時も私は
ホテルのカジノでおぼれかけていましたっけ。


同じくニューカレドニアの近くのイル・デパン島にて。
長い時間を掛けて貝殻の破粉が堆積して出来た白い砂浜が
きれいでしたね。







       第5葉 桜満開

 真美ちゃんは、さくらを見に行こうと、よく誘ってくれました。
実家の近くの池のほとりのさくら、名古屋の名城公園のさくら、
足利のさくら、隅田川のさくら。

 さくらは満開になるほんの1日2日だけ、一年のうちのほんの
わずかの時間だけ、私たちに、一瞬ハッとして言葉を失うほどの、
そして心を奪うほどの美しさを見せてくれます。
同じさくらの木を毎日見ていても、ほんのひとときだけ感じることが
出来るその美しさ、そのはなやかさ、その見事さ。
真美ちゃんもそんなさくらの一瞬が好きだったと思います。

 2000年春、彼女の手帳には、手術から10日目の4月7日に
「桜満開」と一言だけ書いてあります。
彼女は入院中でしたが、きっとその一瞬の美しさを
感じていたと思います。そう思うと、よかったなと感じる反面、
どんな気持ちで見たのかと考えると、複雑な気持ちになります。

 ところで、またまたひいき目になってしまいますが、真美ちゃんが
一発気合を入れて、おめかしした時の綺麗さは、いつも見ている
私でも、一瞬ハッとすることがよくありました。
本当にキレのある綺麗さでした。
2000年3月8日、ある人の出版記念パーティ−に彼女は気合を
入れておめかしして行きました。残念ながら私はその姿を見て
いませんが。
結局それが、彼女が人前で、その様な姿を見せる最後となって
しまいました。その時は珍しく彼女も自画自賛していましたので、
是非見ておきたかったと今でも思っています。
きっと本当に綺麗だったと思います。
一瞬、こころ奪うほどの美しさをみせる、さくらの様に。



1985年4月 私の実家近くの池のほとりのさくら並木で。
この時は、まだ満開ではないですね。







 真美ちゃんは私を本当にいろいろな場所に連れて行ってくれ
ました。しかも私は旅行当日まで何一つ準備する必要はなく、
身一つで彼女の後をついて行くだけでよかったのです。
そして彼女はいつもその旅行を完璧にコーディネートしてくれ
ました。私はいつも私だけの専属添乗員付きの贅沢な旅行を
させてもらい、彼女は私に一生分の遊びの時間を与えてくれ
ました。
それぞれの旅行、それぞれの写真に、数多くの思い出があり、
それらの写真は、私をあの若かった日々にタイムスリップさせて
くれます。
ここにその一部を置きたいと思います。
真美ちゃん、本当に本当に、ありがとう。



『新婚旅行』





1988.03.09 ロンドン ヒースロー空港にて。





1988.03.10 ロンドン市街で駐車違反車を発見。





1988.03.11 バッキンガム宮殿にて。





1988.03.13 フィアデルフィアにて。





1988.03.14 キーウェストへ向かう途中で。





1988.03.14 キーウェストへ向かう途中でのサンセット。





マイアミ空港で、このワインレッド色の
サンダーバードを借りてキーウェストへ向かいました。





1988.03.15 キーウェスト モンロービーチにて。





1988.03.17 デズニーワールド、エプコットセンターにて。





1988.3.18. オーランド 
COCOA BEACH Holiday Inn 横の大西洋の砂浜にて。





1988.3.18. ケネディ‐スペースセンターにて。





1988.3.20 自由の女神 観光へ向かう途中です。



『個人旅行』





1991.9. カリブ バハマ。 
    トレジャーアイランドに向かう途中です。





1991.9. バハマ トレジャーアイランド。





1991.9. バハマ Crystal Palace前にて。





1992.9. ニューカレドニア、イルデパン島にて。





1992.9. うりうり。





1992.9. なでなで。





1992.9. イルデパン島。





1992.9. ニューカレドニア、ヌメア市街。
 




1992.9. ニューカレドニア、ホテル前の埠頭にて。





1992.9. ニューカレドニア、ホテルのテニス場にて。





1992.9. ニューカレドニア、足洗い。





1993.9 マウイ島の埠頭にて。





1993.9 マウイ島のホテルのロビーにて。





1993.9 マウイ島のホテルのロビーにて。





1993.9 マウイ島のホテルのレストラン前にて。





1993.9 マウイ島のビーチにて。





シンガポールにて。





シンガポール ラッフルズホテルにて。





モルディブ クルンバ島の桟橋にて。





タヒチ、ランギロア島。





タヒチ、ランギロア島の水上コテージ。





タヒチ、ランギロア島の水上コテージに泊りました。





この水上コテージに宿泊しました。





シュノーケリングツアーに行きました。





シュノーケリングはあまり好きではないです。





函館にて。





函館で毛蟹をお腹一杯食べました。





パラオにて。





シャチキッス 鴨川シーワールドにて。





ロタ島の浜辺。





名瀬の家です。





1999. ハワイ島で馬に乗りました。





1999. ハワイ島で車を借りました。





1999. ハワイ島でガソリンを入れてみました。





1999年9月30日 ドラゴンズが11年ぶりに優勝しました。





2000年11月 オアフ島のホテルのプール。





2000年 横浜中華街、萬珍楼で、
お姉さんご家族と食事をしました。





鴨川シーワールドにて。