横山まさみち
(横山まさみちプロダクション)

横山まさみちの思い出 T

劇画・漫画家への道@           ※「横みちソレーユ No.17」 (横山プロダクション・昭和41年6月発行)より抜粋

 まだほんの2,3才頃のことだった。ぼくの家では母が和裁を教えていたので、いつも12,3人は若い娘さんたちが出入りしていた。その妙齢の令嬢たちの前で、ぼくはある日、「ブッ!」と一発やらかしたのである。母がぼくをなじって
「マリちゃん、そんな時はなんて言うの」と注意したところ、ぼくは「大砲!」って答え、一同大笑いになったそうである。もちろんこれは、ぼくが2,3才の頃のことなので自分ではおぼえていない。とにかくもの心つかないうちから、人の意表をつき適当にケムに巻くことを心得ていたものとみえる。

 絵を描くことは小さい時から好きだった。3つ年上の兄も絵が好きで、小学校の頃は二人で紙芝居をつくり、近所の子供を集めては、みせていた。タダなので本ものの紙芝居屋さんよりいいってんで、結構人気があったものだ。

 また白い紙さえあれば、たとえば新聞にはさんでくる折込広告の裏にでも、描きまくったものだ。今でもおぼえているのは「カメの世界」と題し、紙一面に小さなカメをびっしり、あらゆるポーズで描いたことがある。おばあさんからは「大きくなったら看板屋にでもなるのか」と言われていた。

 本もよく読んだ。漫画ではギャグぽいものよりも、「のらくろ」とか「冒険ダン吉」等ストーリイのあるもののほうが好きだった。

 江戸川乱歩等の探偵小説も大好きで、学校で先生が休んだため自習になった時など、読んだ本をみんなに話してやり、ほかのクラスは騒がしいのに、このクラスは静かでいいとほめられたことがよくある。それからはいつも時間さえあれば、皆が「横山くんのハナシ、ハナシ」と要求し、とうとう読んだ本のネタも尽きてしまい、その場で即席に物語りを創作しては話したものだ。今から考えれば、そのことが、現在わりとスムーズにストーリイを創作できる力を養っていてくれたのかもしれぬ。

 13,4才の頃、ただ絵をかくだけではものたりなくなり、わらばん紙を本の形にとじて、それにストーリイ漫画をかき、自分で単行本をつくったりしていた。200頁くらいの本にしてはすべての頁に色までつけていた。

小学校卒業の頃はぼくにとって灰色の期間であった。父が病死した。そのため進学できなかった。

 高校は夜学へ通い、昼間は郵政局とか県庁の見習事務員をしていた。見習事務といえば一応きこえはいいが、実際は給仕であり、お茶くみや掃除などをするのである。その給仕の時、友人にみせたりしていた自作の漫画本を課長や係長がみて「横山くん、こりゃあもったいないよ。出版したらいいよ」といってくれた。しかし、ぼくはこういう本をどこへ持っていったら出版できるのか、どうしたらほんものの本になるのかぜんぜん知らなかった。またそんな野心もなかった。ほんとうの趣味で、ただ描き続けていた。

 こうして昼間働き、夜は学校へ通い、帰宅してからは漫画を描くという3本立生活が続いた。

 夜間高校2・3年の頃、近所の女の人が「漫画本の原稿をかいてほしい」と言って来た。その人のつとめている富士玩具というおもちゃを作っている会社で漫画本を出す計画があるが、作家を知らないで困っていたところ、その女の人が「うちの近所で漫画をかくことの好きな子がある」といったことから、話しがきまったものだ。

 嬉しかった。ぼくの本が出版される!夢のような話だった。おもちゃ屋の出す本だから幼年むきのうすいものだった。16ページで定価は10円。

 第1作は「ウサギのかごや」。本の少ないときでもあったのでこれがものすごい勢いで売れ、次々に注文を受けた。

 ものすごい勢いで売れても、もうかるのは会社で、ぼくは1作につき2千円づつもらっていた。しかしそれがきわめて有難かった。父亡きあと母と祖母と子供5人の家族(兄とぼくと弟と妹2人)の貧乏暮しには大いに助けになった。「ウサギのかごや」のあと30作ぐらいはかいた。昼間の勤務と夜学と漫画の3本立生活はきびしかった。寝るのは毎晩12時過ぎであり、朝は7時までには起きて出勤せねばならなかった。今から思えばよくやったものと思う。もっとも絵をかくことが好きだったからこそできたものだ。

 しかしこの出版は長くは続かなかった。出版社といっても、もともと玩具会社が副業にやってたものでもあり、さらに他の事業にも手を出して失敗したとかでこの会社はつぶれてしまった。

 やはり出版に関しては東京へ行かねばと、つくづく思った。経済的事情から大学へ行くことなど望めそうもなかったが、夜間高4年になった頃、むやみに向学心にもえてきた。漫画をかきながら大学へ行けたらどんなにいいだろう……それが当時のぼくのユメだった。

 東京に親せきや知人もないぼくにとっては、不可能に近いことだった。無理だとは思った。しかし当って砕けろだ。とにかく一日だけでも東京へ行って様子をみてこよう、とぼくは思いいたった。

 東京へ持っていく原稿をかき続け「踊るゆうれい」という60頁の作品をかきあげた。(当時の単行本は大体60頁か96頁であった。)

 学校の春休みを利用し、勤めは休暇をとって、60頁の原稿をたずさへ、ぼくは東京への夜行列車に乗った。

 鈍行(普通列車)なので名古屋からは9時間。東京へ着いたのは夜の白々明ける9時頃だった。西も東もわからなく、行く宛先もなかった。

 本のうしろには出版社の名や住所(奥付という)が出ている。それを便りに歩き廻り、たどりついたのは、神田の同和出版社というところだった。

 持っていった「踊るゆうれい」という原稿を見てもらう間、ぼくは固くかしこまっていた。そしてその結果は、「編集会議にかけてから、いずれ返事する」とのことであった。ほかの出版社も廻るつもりでいたが、そこで原稿は預かりたいとのことだし、疲れてもいたのでその日の夜間で帰郷することにした。そして名古屋へ帰り着いたその明くる朝からもう出勤していた。

 待ちに待った同和出版からの返事はやがてとどいた。「編集会議はパスしました。あの作品は採用します。稿料は近いうちに送ります。次の作品もどんどん描いて送ってください」とのことだった。ぼくは小おどりして喜んだ。うまくいけばぼくのユメは実現するかもしれない。

 ぼくは卒業後の状況を夢みながら勉強し、漫画もかき続けた。〆切の迫った時には徹夜に近いこともした。

 こうして60頁の作品を数点送り続けた。こうした無理な日々は、ある程度精神力でもっていたが、いつしか病魔がぼくの身体をむしばみはじめていることに気がつかなかった。

 作品は送り続けても稿料は初めのも含めて一度も送ってこなかった。しかし当時は稿料のことよりも本になるだけで嬉しかった。タダでいいから本にさえなればいいと思っていた。それがぼくの履歴書になるからだ。しかしその本さへも送ってこなかった。原稿が本になっているかどうかもわからなかった。問いあわせの手紙を出してもナシのつぶてでウンともスンともいってこなかった。

 家の者は「世の中はそんな甘いものじゃない。だまされているんだ」といった。だがぼくは出版社を信用していた。

 ぼくはウソをついたり約束を破ることは大きらいである。だから人を信用しやすい。まだまだ純情であった。家の者が言ったとおりであった。事実はだまされていたのである。のちになってわかったことだが原稿はすべて本になっていた。しかしそれを連絡もせず稿料も送ってくれなかったのである。

 ぼくがプロの漫画家になってからもこうしたことは度々経験した。実にいいかげんな相手が多い。話は最近のことに移るが、3年ほど前のこと、一人の漫画家志望者がぼくのところへたずねて来た。原稿をみせてもらったが、まだプロになれる腕ではない。その少年はある出版社へもその原稿をみせにいった。ところがそこは採用してくれたそうで、このあとも戦記ものをかいてくれと言われたといい喜んで帰郷していった。もしそれが真実であればいいとぼくは思っていたが果せるかな、その後2年ほどたって再びその少年がたずねて来ていうには「その後原稿を送っても返事がなく、上京してきてみたら
その出版社はつぶれていた」と。

 全く誠意のない輩は多い。その少年は、なまじ希望をもたされたばかりに、高卒当時の就職も失ってしまったと言っていた。ぼくが出版もはじめた目的の一つには、この誠意を貫きたいことにもある。いいかげんなことをいう人間は出版界ばかりとは限らない。世の中が誠意で満ち溢れるようになったらすばらしいことだが……

 そりゃ事業には失敗もある。しかしどんな立場にあっても誠意だけは一本とおしてほしい。これはぼくが現在執筆中の「ああ青春」のテーマの一つでもある。

 話が横道へそれたが……

 ぼくが高校の卒業試験も間近な頃だった。記憶力には自信があったのに、いくらノートを繰ってみてもちっとも頭に入らなかった。いやに身体が熱っぽく、けだるかった。床について体温計をあててみたら、ひどい熱だった。ぼくは肋膜をわずらっていた。日頃の無理がたたったのだ。

 ぼくはそのまま病床にふす身となった。病魔の前には一瞬にして夢も希望も砕け散っていった。上京はもちろん、進学も、漫画を描くことも、すべてを断念せねばならなかった。
 夜は静まりかえる。速く流れてくる夜汽車の汽笛を聞きながら、病床の枕を涙でぬらした夜も幾度かあった。唇をかんでわが身の不甲斐なさを嘆いた。



HOME  次へ