第1章 忍び寄る恐怖
§1.暗闇に光る目
公園の桜が散って、植え込みのサツキが咲きそろう頃、町には例年のようにツバメの姿が見えるようになって来た。
「いやー、それにしてもいい季節になってきたぜ」
公園に程近い雑居ビル…深夜まで『宴会』を開いていたネズミ達がいた。全員、ほろ酔いを過ぎている。
「まあ、それもすぐ終わっちまうがな…梅雨のジメジメは身体に悪いぜ」
「へっ…おめぇに言わせりゃ、夏の暑さも、秋雨も、木枯らしも、冬の寒さも、何だって身体に悪いの連続じゃねぇか」
「だからよ、だから、この季節を満喫しようってんじゃねぇか。野暮を言いない」
彼らは、酔っ払いの他愛ない会話を繰り返しているに過ぎなかった。そのうち、ポツポツと、座が欠けていって…
「さて…帰るか?」
「嫁さんの怒った顔でも思い出して、目ぇ覚ますんだな」
最後に立ち上がりかけたネズミに、横になってまどろみかけていたネズミが声をかけた。
「てやんでぇ、ウチの嫁さんに限って、鬼にゃなんねぇよ。俺の身を心配のあまり、寝ていられねぇんじゃないかって、そっちの方が心配だぜ」
「それは、それは…アーア、ご馳走様だぜ」
相手は、大あくびを交えながら言った。
「独り身の気楽さで、ここで寝るのはいいけどよ…風邪引くなよ」
「…ああ…」
相手の返事は、いびきに変わっていった。それを見届けてから、やや危なっかしい足で、住処に帰るネズミ…
だが、酩酊状態でも本能は生きているようだ。
「……?」
ふと、周囲に『妙な気配』を感じた。後ろを振り向いたが…
「…気のせいか?」
彼が向き直った時、今まで見えていた町のネオンがなくなっていた。彼はとっさに事情を理解できなかったが、そこに『何かが』立ちふさがっていて、
ネオンの代わりにこちらに二つの灯が鋭く、刺すような視線を送っているのに気づいた。
「……!」
第一報が、アカハナの元に届いたのは翌日の昼だった。
「…何だって!?」
チョッキーからの報告を受けたアカハナは、ベアーを伴って『現場』に急行した。
「…事情を、聞こうか」
アカハナは、現場の手前で足を止めてチョッキーに訊ねた。
「はい…実は、彼の奥さんに頼まれまして。夕べ、仲間と出かけたきり帰ってこない…と。奥さん、心配していました。
確かに、彼は泥酔することはあっても、住処にゃきちんと帰りますし。それで、足取りを追ったんです…」
「その結果は?」
「確かに、夕べは遅くまで仲間と宴会を開いていました。住処に戻ったのは、深夜です。そして、住処へのルートの途中で…」
チョッキーが取り出したのは、ズタズタに裂かれた布だった。
「彼の…服の一部です」
その「状況』を見たアカハナとベアーは、お互いに顔を見合わせた。
「…猫、か?」
「恐らく…そして、血痕を追ってここまで来ました」
そこは、町に点在する小さな公園の一つだった。
「そして…そこの植え込みに…」
チョッキーは、それ以上の言葉が出なかった。彼にしては、珍しい歯切れの悪い口調にアカハナ達は妙な不安を覚えた。
「…とにかく、見てみよう」
ふたりが、植え込みの中を覗き込んだとたん
「うっ…」
顔をしかめて絶句した。全身、鋭い裂き傷でズタズタにされて、さらに両手両足が無残に食いちぎられていた。
しっぽも身体から分離していて、顔は誰だか分からないくらいに潰されていた。
「おい…これ…は?」
いつもは豪気なベアーが、血の気の引いた顔で振り返った。
「…残念ですが」
「…と、とにかくこの件は…我々だけの…口外ならん。後で、リーダー会議を開く」
アカハナも、いつもの落ち着きをなくしていた。仮の埋葬を行うと、ともかくその場を後にした。
「しばらく、物が食えそうにないな…」
ベアーが、珍しく蒼い顔で呟くように言った。
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§2.姿なき殺し屋
その日の午後、アカハナたちと入れ違いにガンバとボーボが件の公園にやってきた。
「今日は、父さんが死んだ日だからな…」
公園の植え込みの片隅に、以前ガンバがつくった『墓標』がある。アカハナ達に、お前の父親はここに眠っていると聞かされたガンバが
自力で自分の身体ほどある大きさの石を運んで、墓標にしたのだ。
「この石の形がさ、父さんが横になっているのにそっくりなんだよ」
ボーボは、何度となく同じことを聞かされていたので黙ってうなずいていた。ガンバはその“墓標”についた汚れを丁寧に拭き取ると
しばらくその前にひざまずいていた。
「さて、父さんへの報告も終わったし…帰ろうか?」
ふたりは、帰ろうとして先程アカハナ達が埋葬をしていった場所の近くに出た。
「…何だろう?」
明らかに、土を掘って埋め返した跡だった。
「ガンバ…血の匂いが…するよ!」
ボーボの鼻が、異変を嗅ぎ取った。
「……」
恐る恐るそこへ近づいてみると、粗く土をかぶせてあった部分から、指の一部が見えていた。
「ワッ…!」
ガンバは、腰を抜かさんばかり驚いた。
「ガ…ガンバ…?」
こちらに近づこうとするボーボを、ガンバは慌てて止めた。
「い、いい。帰ろう。帰って…から…」
ガンバは、ボーボを押しとどめるようにしてその場を後にした。
…その頃、アカハナ以下町のリーダー格が集まっていた。
「チークの奴…あれほど、夜遅くにうろつくのは危険だと…」
リーダー格のひとり、ジャックが辛そうな声で言った。
「…ジャック、お前ひとりの責任ではない。我々、全員の責任だ。エリアが離れていたこともあり、徒に町の仲間に警戒心を与えるのも…と思って
我々の間だけで話を止めていたのも、事を大きくしたんだ。まさか、奴がここにもう来るとは…」
ベアーが、悔しそうに言った。
「話を整理しよう。1ヶ月ほど前、チョッキーからの報告で東のエリア(人間流に言えば、ふたつ先の町)で、町ネズミ達が次々と惨殺された。
犯人は、かなり大きな身体の野良猫…身体を、爪でズタズタに引き裂かれた上、手足やシッポをを食いちぎられる殺され方は、チークの被害状況と
よく似ている。野良猫の行動パターンから、すぐにはここに現れることもないと判断し、町の仲間を必要以上に神経質にすることを避けるため
我々の間での話としていた…」
「それが…やって来た!」
「…で、どうします?犠牲者が出たことは、遅かれ早かれ分かることです。町の連中に警戒を呼びかけ、警備を強化した方が…」
リーダー格のひとり、マジックが意見を出す。
「それも大切だが…暴走しかねん奴も、いるからな」
同じくリーダー格のひとり、シャドーは慎重な意見を出した。
「うむ…若い連中の中には、冒険のつもりで立ち向かう奴も出てくるだろう。それが、我々の足並みを乱し要らぬ犠牲を生んだりするのは
十分ありうる話だ…」
「…難しいところだな」
ベアーが、腕組みをしながらいった。
「…とにかく、近日中に事態を公表しよう。今夜からは、我々とそれぞれの下の者から口の堅い、しっかり者を中心に警戒を強化する。
相手は…実際、私もその姿を見たことがないが…話からは、相当な強敵だ。姿のはっきりしない相手だけに、十分警戒してくれ」
アカハナが下した結論に、マジックが呟くように言った。
「姿なき殺し屋…か?」
「ところで、チークの嫁さんには…?」
「俺から、事情を話すよ。ふたりの媒酌をしたのは、俺だしな」
ジャックが、ちょっと辛そうな口調で言った。
「そうか…済まないが、よろしく頼む。あいつの嫁さんは、しっかり者だが…気が動転して騒ぎ出さないとも、限らないからな」
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§3.その名はサタン
ガンバは、あれ以来落ち付かなかった。『あれ』は、明らかに誰かの死体だ…でも誰の?なぜ、あんなところに?
ガンバは、見てはいけないものを見てしまったような気がして、落ち付かなかった。
しばらくして、ガンバは日中リーダー格のネズミ達が詰めている場所に向かった。ここが、何かあった場合の基地となる場所だ。
「あ、あの…」
ガンバが、入口から遠慮がちに顔を出すと中にいた、アカハナとシャドーが振り返った。
「どうした?何かあったか?」
アカハナは、いつもの口調でガンバに尋ねた。
「あ、あの…その…」
「あの、その、じゃ分からないぜ。お前も、エリアを持たされたんだ。いつまでも子供みたいなこと言ってないで、はっきり言えよ」
シャドーの若干、お説教じみた言葉にガンバは躊躇したが…
「じ、実は…」
ガンバの話を聞いていて、アカハナは内心まずかったと思った。
確かに、チークの遺体を埋めた付近には、ガンバが父親の墓標をつくっていた…
「…ガンバ」
アカハナは、ガンバの話が終わるとちょっと真剣な表情で言った。
「実はな、我々町ネズミに危機が近づいている。これは、近く集会を開いて発表するが他地区で猛威を振るった、凶暴な猫が
我々の地区に侵入してきた。この猫の存在は、我々にとって、大きな脅威だ。現在、チョッキーが情報を収集している。
それがはっきりしたところで、みんなに発表する。それまでは、誰にも口外するな。もし、我々の発表以前にこの話が広まったら
お前に厳しく責任を問うことになるぞ」
アカハナに真剣な目で見つめられては、ガンバはうなずくしかなかった。そして、その雰囲気に気圧されたように帰っていった。
「…ちっと、あいつにゃ荷の重い約束じゃなかったか?」
シャドーに言われて、アカハナはちょっと口元に笑いを浮かべた。
「まあな…だが、噂なんて既に独り歩きを始めている。ガンバひとりに口止めしたってさほどの意味はないさ。だが、火種は小さい方がいい」
“…なるほど、都合よくガンバに『試練』を与えたってわけだ”
シャドーは、腹の中で呟いていた。
「後は、チョッキーの報告の内容次第だ…」
2日後、被害に遭っていたエリアで情報を集めていたチョッキーが帰ってきた。
彼からもたらされた『情報』は、想像以上にひどいものだった。その夜、事情を知ったアカハナ達は集会を開いた。
話を聞いた仲間達は、驚きと動揺でざわめいた。
「…静かに!」
アカハナが、仲間達を静かにさせた。
「今後、夜間の外出はなるべく控えるように。もし、夜間に行動する場合は慎重にしてむやみな行動を取らないように」
「しかし…昼間は、人間に見つかっちまう。危険です!」
一部から、抗議の声が上がる。
「敵の狙いも、そこなのだ。日中、我々が潜んでいる時には手を出さず、夜に行動をしている時を狙うのだ。そして敵にとっても
例えネズミを追っているにしても、昼間に人間達の前で派手に行動すると、危険な野良猫として目をつけられる。夜の方が、都合が良いのだ」
沈痛な空気が、彼らを支配する。
「我々としては、敵の目的が分からない。我々を、町から追い出そうとしているのか、それとも皆殺しが目的なのか…
ただ、敵のやり方は残虐だ。今のところは、徒に犠牲者を出さないようにするのが、最善と思われる。各自、行動に責任を持ってくれぐれも
派手な行為はしなように」
それでも、一部の仲間がざわついている。
「いいか、絶対に功名心や腕試しなどと言う気持ちで、この…野良猫、通称“サタン”に手を出すな!」
アカハナが指し示した“絵”には、こげ茶の身体に、薄い茶色の縞模様が全身に入った猫が描かれていた。
右耳の形がいびつなのは、猫同士の喧嘩で怪我をした跡と思われる。
通常の猫達より、一回りは大きさが違う。絵には描かれていないが、前後の足には、鋭い爪が隠されている。閉じてある口には
自分達の身体を食いちぎるだけの歯を持っているのだ。
まだ、その実物と恐怖を体験していない仲間達の中には、恐るるに足らずと言った空気が一部にあったことも事実だった…
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