ウルトラクイズ賛歌

はじめに「ジャンボ」ありき

1976年、あるテレビ番組の企画が持ち上がります。その年は、アメリカ建国200年 の年でしたので、それに絡んだ企画でした。
その名を「史上最大ジャンボクイズ」と言い ました。
アメリカの主要都市を巡ってクイズを行い、次第に人数を絞っていって決勝地は ワシントンのホワイトハウス前。決勝戦は7月4日(アメリカ建国
記念日)に行い、その 模様は衛星生中継…と、言った内容でした。
しかし、この企画はそのスケールの大きさからも準備期間があまりになくてボツとなり ますが、翌1977年の早春「アメリカ横断ジャンボクイズ」として
日本テレビの会議に提出されたのです。
そう、これこそが「アメリカ横断 ウルトラクイズ」の原点と言えるのです。
また、ここに至るまでの「ルーツ」にはいろいろあり、1969年頃にある番組制作 会社が「東名高速クイズ」という企画を発案したと言われています。
これは、参加者を 車に乗せて東京を出発、各インターチェンジでその地元にちなんだ問題を出題して、敗者 はそこで車を降り帰ってもらう…
と、言うもの(結局、ボツになりましたが)
また、前述の「アメリカ建国200年」に絡む番組として、テレビマンユニオン社が制作 した「夢と冒険・アメリカ大横断」があり、これは年齢も経歴も
異なる男女7名が キャンピングカーに乗り、7つの謎を解きながらアメリカを横断すると言う番組でした。
(同社はウルトラクイズの制作スタッフとして、この番組制作時のノウハウを生かしたと 言われています)
これらの流れから、次第にテレビ番組としての形が出来てきて1977年にその「企画」 は日の目を見るのです。


前代未聞のクイズ番組

当時、テレビにおける「クイズ番組」は全盛期と言えたでしょう。その大部分が、一般の 視聴者参加型番組で、優勝賞金100万円か海外旅行の
商品はある意味で「羨望」の存在 でした。また、これらのクイズ番組にいくつも出場して優勝を重ねる人も話題になって いました。
そんな中「クイズをしながら、タダで海外に行ける。勝ち進むと、もっと先まで行ける。 そして、優勝者には素晴らしい商品が出る」クイズ番組の
出場者募集広告が、新聞に載り ました。クイズ番組によく出場されていた人たちも、これにはビックリしました。何しろ クイズ番組の「優勝商品」である
海外へ連れて行って、クイズをしようと言う企画は前例 がなく、しかもタダとは。
当時、日本テレビの看板番組の一つに「どっきりカメラ」がありました。これは一般の人 をターゲットにブラックユーモア満載の「どっきり」を仕掛け
驚いたり慌てる表情や姿 を笑い飛ばす番組でした。
「もしかして、どっきりカメラの一企画では?」
そう勘ぐった人も少なくなかったようですが、約4000人の「応募」がありその中から 404名が後楽園球場に集まったのです。
そして、○×クイズで80名に絞られ続いては 羽田空港での第二次予選ですが…スタッフは後楽園でも羽田でも当日の朝、果たして来て くれるのか
心配でたまらなかったと言います。 何しろこの番組は、認知度ゼロ・不可解さ、怪しさ、疑わしさ…いずれも120%でした から。
しかし、次々と現われる参加者の姿にスタッフは文字通り狂喜したと言います。


クイズ番組なのに、ジャンケン?

そんな参加者に突きつけられたのが「ジャンケン」でした。いよいよ、海外へ脱出すると 言うその「手段」が、よりによってジャンケン…!?
唖然とする参加者をヨソに、準備は 整いテキパキとスタート。それにしても…クイズ番組のはずなのに、ウリであった海外へ 行けるか否かの関門
なのに、ジャンケンとは。度肝を抜かれたと言うより、何が何だか… と言った感じだったようです。
その後、成田に場所を移した後もジャンケンは付きまとい(第10回のみ、腕相撲で勝敗 を決めましたが)その都度、ジャンケン撤廃運動は恒例で
「負けた方が勝ち」「ジャンケンとクイズ」 「炎の一発勝負」などユニークな(?)企画もいろいろ飛び出しましたが、ジャンケンに一喜一憂 する様は
その年の参加者の「人間性」を垣間見ることの出来る、貴重なシーンでした。


ウルトラクイズに参加する理由

そして、海外へ飛び出したクイズ番組はグァム・サイパンからハワイを経由してアメリカ 本土へ上陸、主要都市や観光地を巡ってクイズを行い
人数が絞られていく… そのスケールの大きさは、日本のテレビ史上に類のないものでした。
そして、その発想は 第2代クイズ王、北川さんの言葉を借りれば「コペルニクス的転回クイズ番組」でした。
その後、テレビで「海外情報番組」は隆盛を極め(未だに、いろいろな番組が制作されて います)ますが、この当時は芸能人でさえ海外ロケは
珍しかった時代です。
第1回はチェックポイント(ロケした都市)が8ヶ所と、その後に比べれば「地味」かも 知れませんが、日本人が海外でテレビ番組のロケをするだけ
でも大変なことなのに、一般 視聴者がクイズのロケをしながらの旅をするのですから、まさに「突拍子もないこと」で した。
そして、決勝戦はヘリで摩天楼の一角にあるビルの屋上に降りての決戦… こうした「前代未聞のスケール」の番組が、世間の興味と関心を
惹き付け「自分も参加 してみたい」と言う気持ちを湧き立たせ、翌年以降「偉大なるマンネリ」などと揶揄され ながらも、年に一度のクイズイベント
として定着していきました。
一方で、80年代半ばから海外旅行は日本人にとって身近なものになり、クイズ番組での 「優勝商品」としての輝きは、鈍くなりました。
賞金100万円も、ちょっとした小遣い にはなるものの、ジャンボ宝くじが3億円を連呼する時代ではこれもまた、クイズ番組で 得る金額としては
魅力がなくなってきたのは事実でしょう。 それでも、ウルトラクイズが発展し続けたのは何故か?
第15回、最後のお立ち台で福留さんは参加者に向って「皆さんは、何故ウルトラクイズ に参加するのですか?」と、問いました。
その答えは、言うまでもありません。
ウルトラクイズでは「フツーと違う体験」ができるからです。
そこには「クイズ番組の枠を飛び出した、スケールの大きさ」があり、だからこそ仕事を 放り出して(今でも、日本のほとんどの企業ではこんな
「お遊び」参加のために、1ヶ月 近い休みはくれません)参加する人がいたりするのです。
また、クイズとは縁のなかった ような人が、ひょいひょいと勝ち抜けたりする面白みがあり、ご夫婦で参加すると奥さん だけ勝ち残るパターンが多く
旅を通して表情の変わった人が出てきたりと、それこそが スタッフの言う「クイズと言う名の人間ドキュメンタリー」だと思うのです。


そして、ウルトラクイズは…

まあ、これは章を改めて書きましょうか(笑)